養老先生と飼い猫のまるが登場するテレビ番組の中で、先生がほとんどの生き物は絶対音感で生きていると言われたことをふと思い出して、とても賢い野良猫のことを考える夜がありました。
よく飼い猫や飼い犬が人間の言葉を理解しているように感じているという飼い主の人の言葉を聞くことがありますが、私も同様に自分の言葉を犬や猫が大いに理解していると感じるほど面白い体験をしたことは二度や三度ではありません。
「ただいま」と言うと「ニャー(さびしかった)」と啼き、
「ごはん?」と言うと「ニャー(おなかがすいた)」と啼き、
「しーっ」と言うと「・・・・・」無言でじっと座ったまま何時間でもいました。
「ねんね」と言うと「ニャッ」と小声で啼いてそのまま眠りました。
声色という理解出来そうでよくわからない基準でも、猫はきちんと判別して対応していました。同じ言葉を発しても、状況やコンディションで生まれる微妙な違いを猫の絶対音感が異なる音として感じているのでしょう。
感情とそれを表す言葉がどのようなものかを犬や猫が理解していなくても、人が日々発する言葉の音階の違いはわかるわけです。
私たち人間は時間という余裕の中でそのことを消化しようと考えがちですが、彼らのように人間の七分の一の時間しかなかったとしたら、とてもそんな細かなことには時間を割けないだろうと思います。もう小さな嘘でさえ、許されないと思うかもしれません。自分の精一杯の鳴き声に、「騙してやろう」とか「大げさにしてやろう」とかそんな邪なものが入る余地がありません。絶対を知るからこそ、本物しか伝わらないということの証なのかもしれません。
猫のようにひとときも休まず、命の危険と他者への信頼を天秤にかけながら過ごすことなど到底できるはずもありません。しかし言葉という道具を扱えることに対して、もっと真摯に考えなければ、猫にさえすべてを見透かされてしまうでしょう。思ってもいない、感じてもいない、心からの悲鳴でもない言葉をいくら並べても、「絶対音感」の猫には解るのです。トリックが丸見えのマジックなんて、誰も観たいとは思わないでしょう。
本当のこと、本物のさまを汲み取ることが出来なければ、信頼もされないし生き残れない。
そこは俳句や短歌も同様だと思っています。
同じに見える風景、同じに聞こえる挨拶、平凡に重ねてゆく日常の中から、僅かな違いを拾い集める力や掬い取れる力が必要だと感じています。
観察日記のような短歌が、全く何も観察できていないのはいわずもがなでしょう。
世界に一つだけの花ならば、その違いを見せて咲いて欲しいと思います。
時間の猶予があるからと言って甘えていてはいけないのです。
・ 留め置くことのできない瞬間を知って生きるか知らずに死ぬか
長いようで人生は短い。何も吸わないティッシュペーパーのように生きるか、絞りきった雑巾のように生きるか、選ぶ余地など本当はない。
2020年7月17日
短歌 ミルク