幼い頃の駄菓子屋や雑貨屋、まだスーパーマーケットなんて洒落た存在が無かった頃はレジスターの横にそろばんも共存して、それぞれの奏でる音を待っている僅かな時間も楽しかったものです。切符にはハサミが、電話にはダイヤルが、手紙にはペンとインクが、そしてレコードやカセットテープが、儀式のように手順を踏んで使われていました。
有線放送が鳴ったり、まだ私の幼い頃は半鐘もありました。幸いにも鳴らされている所を
見ることはありませんでしたが、生活の細かな所に少しずつ少しずつ余白のようなタイムラグがあったものです。
SNSの返信が遅いとか、メッセージを見たとか見ていないとか、現代人にはすべからく余裕というものがありません。少し前までは、壊れたものも壊れたままそれなりに使っていたような時代であったのに、今はスマホの硝子くらいしか壊れたままのものは見かけません。豊かさというものは取り違えるとこうも異なる顔を見せるのかと驚きを隠せませんが、こと言語環境に絞って言うならば、確実に貧しさの時代に入っているようです。
速報!と勢い伝えるニュース記事にも、誤字や脱字、誤った仮名遣いが多く見られます。
アナログの新聞や雑誌、CMのあるTVからの敬遠を嫌って、ネットよりも従来メディアの方へ早く情報を流そうとしています。速さや効率では勝てないので既存の既得権を死守するためにネットの優先順位を下げてしまっているようです。もう取材力や記事の中身で勝負するという時代ではないのかもしれません。
大半が圧倒的なシェアを誇って絶大な権力を握っていた地方の新聞社が、苦境に立たされています。クルマ離れと同様に新聞離れが起きていることを実感します。これからは銀行再編ならぬ、新聞社再編が勃発するかもしれません。言葉を扱う仕事は、言葉をぞんざいに扱えば必ずしっぺ返しを受けることになります。地方で政治も含めあらゆる業界に幅をきかせるほど力を持ってしまった反動は、それだけ読者を置き去りにした新聞発行を続けた結果でもあります。本人達は記事でお金を頂いていたと思っていたのかもしれませんが、実のところは記事以外の余白が収益を支えていたことに全く気が付いていないという愚かな結果を招いているのです。
平成は余白をゼロベースにするべく現れ、本当にゼロに近いものにしてしまったのでしょう。多くの人々が「豊かさ」の正体を求めて日々ネットを彷徨っていると感じています。
ゆっくりと謳われる、一つ一つの言葉を噛みしめるような歌謡曲に比べて、今の音楽は言葉を並べても並べても足りないといわんばかりの幼さに溢れ、省略した言葉が多いのにも関わらず、歌詞がやたらに長いという本末転倒な状態です。余白の意味も解らず、解らないまま書き並べて、まるで余白に食いつぶされることを恐れているかのようです。
短歌や俳句は、こういった余白を恐れる今の時代に燦然と輝くものでなければならないと思います。
一ページに一句や一首しか書かれていなくても、それを良しとする力があります。
ゆっくりとめくっても、パラパラとめくっても、翌日読んでも、一年後に読んでも、十年後に読んでも、読者を納得させる余白のリズムを孕んでいます。
同じ刻みかたであっても、皆が異なる時間の歯車を持ちながら生きています。俳句や短歌によってたまたまギア同士が出会った時、相手の歯車の速さや力を知ることができるのでしょう。自分で自分の歯車を回すこと、自分で自分の歯車を回す強さや速さを変えながら生きてゆくこと、それができるからこそ人間であり、文化によって歯車同士が出会い新たな力を産み出すことに繋がっているのだと思います。
豊かさは、多くの無駄やロスにもへこたれない歯車なのかもしれません。
そう考えれば、余白はただの真っ白ではないことがわかります。
・ 許容する豊かさがある昭和には時計の鳩さえ放たれていた
扉の中へ戻らないままの鳩は、なぜだか幸せそうな眼で啼いている。
2020年7月7日
短歌 ミルク