頻繁に、それも長い間使ってきた物をあらためてまじまじと見る機会はあまりありません。
(当たり前)という悪魔に魂を売ってしまったら、片目どころか両目を失う程の感覚を手放してしまうようなものです。
何にしても貧乏性な私は、コンビニなどで頂ける白いプラスチックのスプーンやフォークもストックしてしまいます。一度使った物も洗って何かに使えるかもと溜め込んでいる始末。それだけ手や目にしているものを細かい所まで観察することなど、今の今までありませんでした。結構麻痺しています。重症です。
洗って乾かした白いスプーンとフォークを並べてみると、柄の部分に小さな丸い窪みがあることに気付きます。しかもスプーンとフォークで位置も違っています。装飾や成形の際のバリなどではありません。
これはデザイナーの、さりげないけれどとても深い想いの形だと気付くのです。
と同時に、今まで自分は何を見ていたのだろうと、あまりの思慮の無さに愕然としてしまいます。
しかもこのことは敢えて大きく詠われていないようです。まるで(そんなことは当たり前)と宣言しているかのように目立たずに日常の中にあります。
両目で健常を謳歌している私たちは、一体何を見てきたのでしょうか。
不便さの小さな一段一段に向き合い、解決しようと試みてきたでしょうか。
あまりにも傲慢で、自分勝手で、それはもはや「心」が健常ではない証拠なのではないでしょうか。
便利なことも危険なことも、未だ見えていない世界で私達は日々を暮らしています。
「意味が無くては生きていけないのか」という現実逃避にも似た歌やつぶやきを多く目にしますが、私はすべての物事に意味が備わっていると信じていますし、特に人が創り出すものには意味が宿って欲しいと思います。
知恵はそんな事にこそ役立つものであって欲しいものですし、経験や失敗をフィードバックできるのも人ならではの能力に違いありません。
自分のためとか他人のためとか、そんな意味を持とうということではありません。
(はからずも滲み出る)そんな心持ちで短歌が読めたなら、どんなにか素晴らしいことでしょう。
奢りや見栄や自意識を捨て、ありのままの素直な気持ちが表せたなら、きっと日常に寄り添う食器のような歌になるのでしょう。
そのためにも、沢山の感覚に恵まれた自身のことを有り難いと思わねばなりません。
そして小さな不自由を見逃してはならないと感じています。
● 健常とのさばる心コンビニのスプーンにすら気付けぬ窪み
物やデザインを通じて心は会話する。まるで超能力のような素敵な交流だ。
2020年1月20日
短歌 ミルク