人並みに手先は器用な方だったので、図画工作や美術は得意と言えなくても好きな教科でした。ただ天邪鬼が災いして、いつも課題とは全く関係のないものを描いたり作ったりで、再三先生に注意を受ける始末。見方のこだわりが強いのは今も変わっていないようです。
ある美術の授業では、透明なウィスキーか何かの瓶を鉛筆でデッサンするもので、確かに透明とはいえ映り込むものなど様々なものが見えるはずなのですが、当時の私は頑なにそのテクスチャーというかソリッドな素材そのものを描くことに気が取られて、透過する光のことなどそっちのけでした。
これはデッサンにとっては致命的で、ほぼほぼ輪郭線だけになった画用紙を見て先生が言われました。
「薄いガラスの内と外でも光は違って見えるものだよ」
そうです。私は外側から、自分の目から見えるガラス瓶の出で立ちだけを描こうとしていたに過ぎなかったのです。確かに先生は、内側から描いてはダメとは一言も言われていない。今でも脳内に軽い稲妻が走ったことを憶えています。
薄いガラスを隔てて、いったい光は何をどう変えるというのでしょうか。
その答えを自分自身が持っていることに気付くのは、もうデッサンなど全くしなくなったしなびた大人になってからでした。
人は心の器に透明なものだけを入れようとしがちです。
透明な瓶にただの水を入れても特に何も変わった物に見えないように、それは新たな発見を産むことはありません。入れた物に濁りや混ざりがあったとしても、それらが示してくれる輪郭が描くものこそが、心を表す形になっているのかもしれません。
光をあてる、光を受ける、心は密かにそんなことを日々繰り返しているのでしょう。
ただ見えている物だけを追いかけない。
ウィスキーの空瓶と先生が教えてくれた大切なことをいつまでも温めていたいと思います。
● 混ぜるべきものは絵の具の中に無くポカンと見ている君のはだいろ
光はいつまでも透明なまま、僕の胸の中をかき混ぜている。
2020年1月23日
短歌 ミルク