種なしのぶどうも、最初から剥いてあるみかんも、綺麗に並ぶ軸のないサクランボも、なんだか味気なく感じます。食べる時には便利だけれども、味覚以外の所に思わぬ感慨を抱いていた自分にあらためて気付かされたようで、利便が良くなることだけが全てではないと感じる一つの例でもあります。
老いた、病気になった、伴侶が死んだ、という一連のネガティブ短歌はもちろんのこと、
生まれた、歩いた、話した、という幸せな赤ちゃんを詠んだものや、子供の成長にいちいち驚く親の歌や、SNSを賑わせる惚れた腫れたのオンパレードに、嫌悪と言えないまでも、うーんと頭を抱えてしまうような「コレジャナイ」感を抱いてしまいます。
幸せなこと、元気なこと、喜ばしいことが素晴らしいのは解っているのですが、それらはゆらゆらとただ流れてゆく笹舟を見送るように味気なく、流れに手を挿し入れた時のように水の抵抗をあまり感じられないと思うことは、少し欲張りなことなのでしょうか。
どの歌も、「比べる」という根底は変わっていません。
比べる心が働いて、それが歌へと流れてゆく構図が変わらないので、いつまでも自分と自分の身近な出来事に張り付いた事柄しか歌えないのだと思います。
本当の意味で「比べる」ことや「自分」から離れることが出来たときに、時間に濯がれても生き残る歌が生まれるのだと思っています。
歌壇や歌人の多くが、未だ「自分」の呪縛から抜け出せずに、それを平穏で幸せなことだと勘違いしたままの状態なのだと思います。
打ちのめされるまでそのことに気付けないのならば、短歌などただの妄想日記に過ぎません。
割り箸を刮いで、ささくれを取る動作が人生には必要だと感じなければ、何をやっても日記止まりになるでしょう。繰り返しになりますが、他人(ひと)の日常を記した日記に興味など湧かないものです。ありきたりはどこまでいってもありきたりです。
・ 綻びや傷や汚れを伴ってうつむく気付きを見つけられるか
幸せな出来事も、不幸せな出来事も、気付きがなければただの出来事。
他人(ひと)には見えない、ただの出来事。
2020年10月24日
短歌 ミルク