時間が経過したことだけが、何か特別なことのように詠われる状況は、ともすれば危険でたいへんに脆い状態であることを知らねばなりません。
千年前をどのように饒舌に、雅で風情ある豊かな感性の源のように語ったとしても、西暦三千年には現代が、その千年前になってしまいます。見えなかったものや見えていないものへの想像も度を過ぎてしまえば、おとぎ話のように薄く平たい戯言だと言われかねません。
文明人を悩ませる古代遺跡のオーパーツのような輝きが、古典和歌には本当にあるのでしょうか。
辿り付けない遠さだからという理由だけで、妙に妄想を過大に膨らませてはいないのでしょうか。
たとえて言えば古典は、ジェンダーはおろか身分すら越えることが出来ずにいますが、塔和子さんの詩はジェンダーどころか、相手が自然や無機物であっても成り立つ懐の深さや大らかさを内包しています。比べること自体が塔和子さんに対して失礼ですが、もうはっきり言って格が違います。
たまたま記録されていたから残るものと、残すべき美しきものを一緒にされては困ります。
タイムマシンが本当にぶち壊すものは、本物ではない張りぼてで作られたものです。
万葉歌人も平安歌人も、皆戦々恐々としているでしょう。
見られては困ることが、蔓延っているからだと思います。
根拠のない奉りをまるで戒めるように、時間は容赦なく襲いかかっています。
西暦三千年、そこに短歌はあるのでしょうか。
・ 及ばない足りない心届かない和歌とはまるでゾンビの歌だ
古典はまさに今濯がれている。千年後に現代の歌は残るだろうか。
2020年10月25日
短歌 ミルク