最近そんな日が来るような予感がして、眠れない夜が何度もあります。
歌とついているものが、韻律を手放すことなど普通では考えられないことでしょう。
しかし言葉の持つ力を解釈し、言葉の求める一点に歌が導かれてゆくならば、韻律を手放す可能性すらあるのではないかと真剣に感じるようになりました。
「調べ」や「曖昧表現」に軸足が移ってしまった歌は、果たして本当に心に深く刻まれるものになれるのか、言葉はそのような歌をいつまで許してくれるのか、今だからこそ考えなければならないのかもしれません。
NHK Eテレにて最近放送された、ETV特集「心が躍る生物教室」を見た際に、やはり詩歌の視覚や聴覚への依存が過剰であることを認識させられました。単にマイノリティに擦り寄ってゆくという偽善や短絡的な意味ではなく、言葉はこれらの感覚の有無を越えて、その使命を果たさなければならないと強く思いました。
カイコの成長を追う授業の中で、2mmほどの卵や小さな幼虫に触れながら観察している視覚特別支援学校(付属盲学校)の生徒達の様子はとても新鮮でした。中学一年生の女の子が大きくなったカイコの幼虫を直接頬にあてて、「先生、これ持って帰っていいですか?」と反射的に発言したのです。
生き物としての人間の発した言葉で、こんなにも純粋な美しさに満ちた言葉を聞いたのは、いったい何年ぶりだったでしょうか。「この小さな生き物にもっと触れてみたい」という感覚は、目が不自由であるとか、テストの成績がどうであるとか、他の人の見方がどうであるとか、そんな澱みを越えてストレートに、ただもう少し触れていたいという欲求に真っ直ぐに回帰したのです。
私は一瞬で鳥肌が立つような衝撃を覚えました。
同時に、言葉が感覚を越えて伝えるものの可能性を強く意識させられました。
視覚や聴覚に限って乱暴に申し上げるなら、絵画や名曲のすばらしさもある意味不完全であり、足りていないものが補えていないと言わざるを得ません。
見えない名画と聞こえない名曲が創り出す世界を補えるものがあるとするならば、それは言葉や触覚なのではないかという大いなる可能性を感じ始めました。
私たちはあまりに限られた世界、自分達だけが暮らしている世界のことを詠い過ぎてはいないでしょうか。自分と自分の世界だけに張り付いた、ごくごく限られた平凡な世界に囚われてはいないでしょうか。それ以外の世界を覗くために、何かを失ったり、何かを奪われたりしなければ、やはりできないことなのでしょうか。
伝統や形式や歴史や本則を越えて、言葉が光となり音となる世界があると思えてなりません。もういちど生身の感覚やリアルな描写に立ち返る必要があるのではないかと思います。
いにしえにただ酔っているだけでは、大切なものを見失う気がしています。
・ 喪失がそうさせたのか純粋がそうさせたのか輝く言葉
少女の視線は鉄のように真っ直ぐだった。それは義眼だからという訳ではない。
2020年8月1日
短歌 ミルク