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短歌のリズムで

言の葉が群れをなすかな鰯雲 暮れゆく空で歌になるらむ

さっぱりな古語1「いとおかし」(ヤバい)

古典を読んでいると、どうしても納得ができないユルユルで曖昧な表現に出会います。
世俗や実存を嫌い、まるで逃げるように言葉や自分の気持ちまで幽玄の世界のもののように煙のごとく処理してしまう表現には、掬い取るべき心の欠片すら残っていないようです。

ものの基準となる基礎知識の絶対量が現代とは異なるので、あまり比べるのは可哀想ではないかとも思いましたが、それを補って余り在るほど、つまらない和歌を珍重してきたこの国の文人の勘違いは大きいと思います。和歌や短歌がこれほどまでに人に張り付いてしまった根本は、千年以上も曖昧な解釈に甘えてきたことにあると思います。

和歌の世界は、すべからく額縁の中の世界で詠われています。
借景として建物の中から自然の景色を愛でる感覚に近く、人という存在があらかじめはめてしまった枠の中でのみ展開される世界のような気がします。

本来の言葉の持つ力は、それを解放すれば人を簡単に置き去りにするほど強力なものです。
しかし、古来の人々は額縁の外の世界を知らずにいたし、知ろうともしませんでした。
自らの足で歩いて、手で触れて、匂いを嗅いでというような実体験の乏しさが殆どの歌に表れていて、「額縁の中で納めたい」という無意識の裏付けがなされているように感じています。
「をかし」とか「あはれ」という、趣を詠うための根幹とも言える言葉がそれを証明しています。とにかく理由がわからないほど指し示す意味が沢山あるのです。
読者に歌意を委ねるならば、それでもよいかもしれません。
しかし、あらかじめ額縁の中にきっちりと景色を置いているにも関わらず、歌意に曖昧な要素を残す言葉を用いて逃げるのは、本当に歌人としてどうかしていると言わざるを得ません。
その最たるものが「いとおかし」だと思うのです。
今の言葉に置き換えれば、これは「超ヤバい」がピッタリだと思います。

美しくても「超ヤバい」
愛らしくても「超ヤバい」
すばらしくても「超ヤバい」
見事であっても「超ヤバい」
趣があっても「超ヤバい」
風情があっても「超ヤバい」
興味をそそられても「超ヤバい」
おもしろくても「超ヤバい」
滑稽でも「超ヤバい」
おかしくても「超ヤバい」

我々日本人は千数百年、実のところ何も変わっていないのでしょう。
このことを放置した感覚を大いに疑います。一体何を恐れて他の表現、他の言葉を使うことを躊躇ってきたのでしょうか。ただ古いということはそれほど重要なことでしょうか。
そこにチャレンジはあったのでしょうか。言葉に対する敬虔な気持ちは常に保たれていたのでしょうか。こうやって千数百年後に種明かしがされるまで、誰も気付けなかったとでも言い訳するのでしょうか。
古典、特に和歌といわれるものは、非常に限定された環境で生まれたいわば異端児だと思っています。決してそれが王道などではない。後の人間がいくら過激に装ったとしても、歌の原点が狭い額縁の中にある以上、ただの背伸びと言われても仕方ない脆さを孕んでいます。
何度でも辛辣な評価を与えるべきだと思いますし、それで崩れ去ってしまうのなら元々それまでの歌、それまでの歌人だったのでしょう。
ただ昔の、とても古い時代のというバイアスに騙されてはいけません。
もう簾をかけて顔を見せずに逃げ回れる時代ではありません。
言葉は万人の民に放たれたのですから。

本質に簾を掛けてまやかして知られたくない乏しい心

何かと言えば「いとおかし」。知ることも知られることも遠ざけて、平安トライブはマジヤバいッス。

2020年8月5日
短歌 ミルク
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HN:
ミルク
性別:
非公開
趣味:
頭の体操
自己紹介:
気づく人だけが手に入れられる
輝きを求めて、日々の宝探しを
楽しむように短歌のリズムで進む
足あとのようなものです。

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