売られている歌集や句集も含めて、批判的な言葉を目にすることは極めて希で、ポイが破れない程度の魚を掬えているのだからそれでよし的な雰囲気に長い間晒されているのが短歌や俳句の世界だと映ってしまいます。
かと思えば、やたらと難しい評論を持ち出して、何としても文学の土台に上げておかなければという、権威欲しさ剥き出しのヒエラルキー大好きな人達の必死な文章に出会うこともあり、何だか優雅な雰囲気を装っても、中身は火の車といったようなまさにハリボテの現状を露呈している歌壇やその取り巻きに、同情すら覚えてしまいます。
若年層の結社離れにも歯止めは掛からず、結社人口は減少の一途を辿りながら消滅してゆくのでしょう。現状のままでは「死ぬまでに自費出版をして仲間に本を配る会」という名前の集団と何らやっていることは変わらないと思います。
仲間という石があって切磋できることももちろんありますが、たった一人でも水の流れや風の抵抗に身を晒しておく覚悟があれば研鑽はできるものです。
玉石の中にあることが決して豊かなことではありません。
ゴミはいくら積み上げてもゴミの山にしかなりませんし、いつかはそのゴミの重さで発火して灰になってしまうでしょう。
だから何でもかんでも許容してしまうことを、どこかで抑制しなければなりません。
そのルールを考えることが人間の仕事なのでしょう。いつまでも野放しにしていると、ジャンルや業界だけの決まり事や約束事が崩壊して、ついには短歌や俳句そのものが無くなってしまうことに繋がってゆくでしょう。
公募を受け付けて順位や選を競うものについても、一人当たりの投稿数を規定しない所が多く存在します。中には一人で十も二十も投稿する強者もいるようですが、もう少し制約を与えて一人当たりの投稿数を制限し、選者に十分な読みの時間を提供する方が短歌そのものの豊かさに繋がってゆくのではないかと感じるのです。上位の歌にだけ評を付けるのではなく、すべての歌に評をするくらいの時間と読みの深さを用意してこそ、作り手と読み手の双方に代え難い短歌を通した時間の厚みが生まれるのではないでしょうか。
多くの短歌モドキの作者が、短歌と連写の出来るスマホのカメラを同じようなものと勘違いしています。続けて多く切り取れば、中には素晴らしい瞬間を捉えたものがあるのではないかという、偶然を期待した勘違いです。写真にはそれがあるのかもしれませんが、短歌にそんなものはありません。沢山作ることにのみ意味を見いだす人やただただ吐き出せば心が晴れる人などがいても構いませんが、一首を丁寧に作り一首を丁寧に読み解くことがなければ、短歌というものにはならないと思います。
プロ野球に例えれば、素人が簡単にプロに混ざってまぐれでホームランを打てると思われている状態に近いでしょう。プロのピッチャーの球と見なされていない、悪く言えば舐められているとも言えるでしょう。実際にはスタンドは遙か遠くで見えてもいないのに、遠くへ飛んだからホームランになるかもしれないという安易な発想なのかもしれません。
いずれにしてもプロの実力が落ちたのか、それとも完全に甘く見られているのか、そんなことでもなければ現在のようなごった煮の状態にはならないと思います。
短歌を嗜む人が増えることは悪いことではありませんが、現状は他のSNSと同じく完全な一過性の流行と変わりありません。
新たな才能を発見することも歌壇の大きな役割だと思っていますが、そのために具体的に何が行なわれているのか、その内容が問われているのだと思います。
・ 浸からねば浮き出てこない垢もあり時のふるいの漉すは雑念
もうはっきりと短歌モドキと短歌は分けられなければならない。石と硝子とプラスチックを分別する日は近い。
2020年10月28日
短歌 ミルク