あまりにも縛りの多い俳句の限界について以前にも触れましたが、現代では更に季語のずれについての混乱が拍車を掛けていて、作者の頭を悩ませ続けています。旧暦と新暦のずれの分以上に、昨今は異常気象とも言われて体感の季節感のずれが追い打ちを掛けています。
手元の簡易な歳時記をパラパラとめくってみても、無理やり感の溢れた言葉が散見されます。少しだけ挙げてみます。
春の季語
・ブランコ
・風船
・風車(かざぐるま)
・シャボン玉
夏の季語
・苺
・端午
・母の日
・雷
秋の季語
・朝顔
・七夕
・天の川
・短冊
・西瓜
・稲妻
・檸檬
・終戦記念日
冬はそれなりのものばかりだったのですが、春のブランコ、風船、風車(かざぐるま)、シャボン玉は少し無理やりなこじつけです。夏も日が決まっている端午や母の日には大きな違和感があります。苺はクリスマスケーキなどにも多用され、冬も大活躍しますし、同じような雷が夏で稲妻が秋という勝手さです。(字の成り立ちが雷は音で、稲妻は色だという理由だそうです)秋は完全に場違いのパレードで、いつまで旧暦の呪縛に囚われているのか、嘆かわしくなります。
偉そうに「季語を立てる」とか言われても、今見た景色の中に季節や季節感が混同してしまては元も子もありません。俳句結社やプロの俳人の中には頑なに崩そうとすることを拒む老害もいるようですが、前にも触れた通り、西暦3000年が来れば2020年も古典と同じ「古の文芸」の時代となるのです。まるでとんちんかんなルールだけを守っても、瑞々しい瞬間や景色はそれを立ち止まって待って認めてはくれません。形式的なルールや縛りに囚われない最も大切なものを活かすべきなのですが、今を生きている人間の方がズレているとでも言いたげな環境がまだ蔓延っているようです。
ルールで縛り込んでゆくと、解釈で甘くするしか抜け道がなくなってしまいます。
だから読みの幅が際限なく拡げられてゆるゆるになってしまうのです。
私は十七音の俳句であっても短歌同様にスパッと切れる断面があると思っています。
ですから決して解釈を読者に丸投げしてはいけないと思います。
短いからこそ、より深い所まで読者を誘わねばなりません。
それが俳句の最も難しい所なのでしょう。
ですから、的外れな季語になど囚われず、現代には現代の季語を創り出すべきだと思います。
より心に響く美しい季語を求めて挑み続けて欲しいのです。
それは短歌を作る人達にとっても大きな刺激や衝撃となるでしょう。
言葉を研ぎ続けるということが永遠の命題です。
俳句も短歌も川柳も詩も、これから千年続くのであれば。
・ 季節まで思い通りにという欲を嘲るように移ろう自然
狭い自分の周りにしか意識が届かない、傲慢な人の戯れに鉄槌を下すのは紛れもなく時間である。今こそ思い知るべし。
2020年10月30日
短歌 ミルク