皆が優れた歌人ともてはやす人の歌に、どうしようもない違和感を覚えて賛同できないのは何故なのか。完成度も高く、奇を衒う言葉を使っているわけでもなく、優れている歌の要素は十分あると思われるのに、ひっかかるもの。
それが何なのか、なぜそう思うのかを長い時間考えておりました。
そしてそれは、「人の気配」あるいは「気配」そのものの事なのではないかと思うようになりました。
優れていると言われている歌人の歌の中には、まるで「住宅展示場の家」のように「人の気配」が無いことに気付いたのです。心の声を拾ってはいるものの、どうも置いてある場所に全く生活感がなかったり、実際には音として発せられていない「オノマトペ」であったり、温度というか、湿度というか、人が居た気配すら感じないような歌がとても多いと感じたのです。
気配はリアリティに付きまとう、とても厄介なしろものです。
ありすぎれば世俗にまみれてしまい、自分の身にピッタリと張り付いてしまうくせに、余りになさすぎると全編お化け屋敷のように、本物不在な状態を作り上げてしまいます。
まるで漫画の吹き出しの台詞のように心の声を綴っても、そこに登場人物の絵が見えていなければなりませんが、短歌に絵を書き入れるスペースはありません。
全コマが吹き出しだけのストーリーなのです。
空白のコマに絵を浮かび上がらせる方法は様々にあると思いますが、そこに気配が漂っていてこそ絵が脳内にリアルに立ち上がってくるのだと思います。
自分も存在してもよいけれど、ことさらに自分を見てしまってはダメです。
自分の存在する世界を俯瞰で見るようにして、その上で自分の目のレンズを通した世界を描くことが求められているのだと思います。
やはり短歌は簡単ではありません。
考えれば考えるほど奥深い、とても微妙で繊細な立ち位置を要求されるものであることを自覚しなければなりません。
展示場のポップボードで終わってしまうのは、少し哀しい気がするのです。
・ 出来るなら人は見えない方がいい心の声の主(あるじ)となって
鋭敏になればなるほど気配の真偽が見えてくる。絶景の中でもマネキンはマネキン。
2020年7月27日
短歌 ミルク