印刷技術や印刷の道具のせいもあったのでしょうが、もともと本の余白はねずみに囓られても本が読めるように設定されていたらしいという説があります。
確かに太古の石でもないかぎり、隅から隅までびっしりと書かれた本はあまり見たことがありません。経年を耐えるためには遊びとも思える余白が必要なことを未だに本は体現しています。
考えれば短歌も似たようなものです。
長い時間に晒されて陳腐化したり、なかったことのように忘れ去られてしまう短歌はとても切ないものです。言葉とはなんと大切なものかと、あらためて考えさせられます。
和歌や俳句の短冊にもおおいに余白が設けられていますが、私はこのスペースは心の色を置くパレットのような気がしています。最後に歌となった色が、多くの色から生み出され、導き出されたように、できるだけ多くの絵の具を出して、あれやこれやと考えて描くことがすばらしい歌(色)となってゆくのでしょう。考えられ、練り込まれた歌だからこそ、少々余白を囓られたとしても、余裕を持ってパレットに元あった色を逆算で追いかけられるのだと思います。
作る喜びばかりを追いかけるのもよいのですが、じっくり熟成させて練り込んでみることも、とても大切な時間だと思います。短時間で、雰囲気で作られた歌が如何に雑なものになっているかに気付ける心を養わなければ、とても経年に耐えられる歌になどなりません。日記も文才のある人が書けば文学ですが、ただの人の日記は下手をすると燃えるゴミに分けられてしまいます。
今はネズミも贅沢になって、余白を囓ることすらしないかも知れません。ネズミにすら相手にされず、開かれもしない本になって仕舞わないように、小さくてもずっと光を放つ本(歌)を手元に置いておきたいと思うのは私だけではないと思います。
・ 囓られて削ぎ落とされて残るものそれだけが乗る時間の船に
その船旅はとても長いのだろう。永遠と言う名の猫も乗っているらしい。
2020年6月9日
短歌 ミルク