《言葉はいつも言葉足らず》の原点
実際に逢って話をして・・・ということが手っ取り早いのでしょうけれど、臆病で勇気もなく、勝手に嫌われ妄想を繰り広げてしまうような根暗な若者だったので、手紙を書くことも、託されることも、とても多かった青春時代でした。携帯もネットもない時代、それは今から考えるとラッキーだったのかも知れません。時間を掛けて自分の手で書く一文字一文字に何かの意味が宿っているかのようで、綴られたすべての言葉が命を持って送り出されていた、文字や言葉に息吹や鼓動が感じられた時代だったと思います。
そんな時代だったからこそ、この一通の手紙のことが忘れられないでいます。
なんとなく、友達だとも恋人だとも言わず、認識もせず、それでいて離れない、でも一緒にいるわけでもない、不思議な相手との出会いがありました。半ば動物的な勘で、私は同類だと感じ、相手にも同じような雰囲気が確認できたので、短い会話ながら話せる程度の間柄でした。「逢える?」と言うと来てくれるくせに、自分からは決して「逢いたい」とは言わない人でした。本当に無口で、表情が変わらなくて、生身の人間なのかどうか疑わしいとさえ思ったこともあります。ほんの数ヶ月という時間の中で、お互いがどの程度近づけたのか(精神的に)さえ知る方法はありませんでした。
家庭の事情か何かで遠くへ引っ越すと聞いてから、妙に心がざわつき始めて、なんだかいてもたっても居られなくなって、いつものように「逢える?」というとまるで幽霊のように待ち合わせ場所に現れるのでした。普段通り、ずっと黙ったままでした。好きだとも、悲しいとも言えず、それでも精一杯の勇気で、肩にだけ手を掛けて口づけをしました。
まるで何かを隠し通すかのように冷たく閉ざされた唇と、視線を合わせることのない真っ黒な深淵を移す瞳を今でも忘れることはできません。
ゴメンもサヨナラも言えず、長ったらしく書いた手紙を渡した時、「きっと読まないかもしれない」とだけ小さな声が聞こえました。それが二人の最後の会話でした。
数日後、一通の手紙が届きました。
宛名はあるものの、差出人は不明。
そして中には何も書かれていない便せんが二枚、綺麗に折られて入っていました。
私は、言葉を勘ぐったり、探したり、当てはめたりすることが二人の間の気持ちに追いついていないことに、初めて気付きました。どう語っても伝わらないと、わかっていたからこそ話さなかった時間が、急に愛おしくなりました。と同時に、白紙の便せんから純粋な想いだけが浮かび上がってくるような気がしたのです。私には返事はそれだけで十分でした。
今思えば、本当に幽霊か幻を見たような経験でした。そのくらい現実感の乏しい佇まいで、それでいて不思議な魅力を持つ人でした。手紙の消印はもう見えないほどに薄くなってしまいましたが、ひょっとして最初から押されていなかったのかもしれません。
言葉が心をその場所に押し留めてしまわないように。
●手紙には僕への宛名それだけで言葉は風に紛れたようだ
白紙の便せんが二枚だけ。さよならの文字もない手紙には、書き切れなかった想いが滲む。
2019年11月10日
短歌 ミルク