相変わらず吐き出され続けるスモッグのような短歌の中にあって、詠み直され、再発見されてゆく歌は幸せなのかもしれません。
誰しもが初心者からスタートし、作歌してゆく中で形や音を整える術を学んでゆくのだと思います。何十回でも直しながら追求してゆけることが、短歌作りの醍醐味でもあります。
投稿サイトでは、もはや目的が「投稿すること」や「承認欲求」に乗っ取られてしまい、短歌は手段の一つに成り下がっています。ブログのページをまとめるサイトには、「短歌」の単独のカテゴリーすら存在していません。皆が皆、プロもアマチュアもひっくるめて、全員で盛り下げてしまっている現状は憂うべきものだと感じています。
それはまるで歩くことの無くなったお遍路のようです。
四国八十八か所を巡るお遍路が、全く同じような状況にあると思えてなりません。
本来の目的である心の浄化は捨て置かれ、ただ数としての札所を巡り御朱印を集めれば目的が達せられたかのような錯覚に陥ってしまっています。これではお遍路もどきと揶揄されかねません。
お遍路の文化には「同行二人」という素晴らしい言葉があります。常に大師様(弘法大師)と共に在るということです。自分の行いは常に大師様と共にあり、見守られ、叱咤され、励まされて、共に歩みを進めよというスローガンのようなものです。本来は誰にも見守られていなくても、自分自身が心の中で唱えなければならない自問自答を、解りやすく伝えるためのものだと理解しています。
この言葉は、まさしく短歌を作る人のためのものでもあると思えてなりません。
見えない大師様を意識すること、それは何処かに投稿などしなくても、必ず自分以外の誰かに読まれているということです。
見えない大師様と共にあること、それは選などというデタラメなふるいに関係なく、自分の短歌の世界が理解されることです。
般若心経を唱えるように常に短歌と共にあるためには、きっと途方もない修行が必要なのでしょう。すべては自分自身に向けられた、大師様と短歌からの問いかけなのです。
簡単になって、手軽になって、失われた大切な物は数えきれません。
傷病辛苦を言い訳にしても、大師様はお咎めにならないでしょう。
お遍路がお遍路であるために、短歌が短歌であるために、一体何をするべきなのでしょうか。
● 漕ぎ出しは重たいものだその坂が急だからこそ力を込める
同じ高さに登れば同じ景色だという訳ではない。求めているのは心の景色。
2020年3月14日
短歌 ミルク