とにかくこの国の同調圧力の異常さと、規模を問わないムラ社会性には閉口しています。
すぐに仲間だ、一緒だと言い始め、ミーハー心全開で同じ車に乗り、同じ服を着て、同じアニメを見て、同じハンバーガーを食べる。異なる価値観を攻撃し、異質なものを受け入れることはない腐った鎖国根性は、未だ隅々にまで蔓延しています。
自分が自分自身の頭で考え、心で感じて判断や創造することはとても貴重な人間らしい行動です。それが無意識のうちに阻害されていることに気付かず、いざという時の判断が何もできない大人が育っていることはとても嘆かわしいことです。
正義の授業の例題としてよく使われる「トロッコ問題」を授業で使用した先生に、父兄からクレームがあったと聞きます。命を扱うことは子供にとってストレスが大きいから止めて欲しいということらしいのですが、結果としてアンタッチャブルにしてしまえば、誰も困ったり、悩んだりしなくて済むという信じられないような結末になったと聞いて呆れてしまいました。
問題から逃げ回れという結論です。
危機や危険から逃げ回れということならまだしも、問題そのものに向き合わず逃げ回れ、触れるなというのです。
自分さえよければ、自分の家族だけよければ、自分の仲間だけよければ、自分の国だけよければ、自分の星だけよければ・・・・。実際に社会がこのような風潮で満たされようとしています。
どちらが正義かというような端的な問題提起ではなく、いざという時にでも思いやりを忘れず、柔軟な思考が出来るようにとの本意を理解しないままに、自分の周りの事だけを問題視する考え方は本当に危険で無意味なことです。また、強制的に二者択一を迫るこの問題提起の方法にも課題があると言わざるを得ません。
このように自らが問題を考える事なく大衆の一員となってしまったら、万が一の事態の時には誰かの意志や言動に従わざるを得ません。咄嗟に発案する能力が養われないまま大人になってしまうと、コントロールされた情報の格好の餌食となって最後にしっぺ返しを受けるのは自分自身です。
皆が同じ方向を向いて同じような生活や嗜好をしているのに、自意識過剰気味に自己アピールをして何が突出しているのでしょうか。満月が出れば満月を写した画像とつぶやきが湧くように投稿され、三日月が出れば三日月を写した画像とつぶやきが溢れることに、違和感を覚えるのは私だけではないと思います。
私は幼い頃から「人とは違う」を意識して生活して参りましたが、その内には数が多いということだけが、正しく清く、美しいものではないという信念がありました。
本物の光、本物の影を観るためには、決して迎合してはならない、引きずられてはならないのです。
言葉や短歌もきっとそうなのだと信じています。
多くの人に読まれたり、評価されたりすることよりも、人とは違う感性を持ち続けることの方が何万倍も魅力的で人間らしいことだと思います。
今短歌は漫画雑誌のように大衆に食いつぶされようとしています。
ブームなどではありません。いわば終焉が近づいています。
引きずられない。
短歌を作る人はこの事を肝に銘じて研鑽を続けなければ、短歌を作る人にもなれないまま飲み込まれてしまうことでしょう。
● 大衆に身を委ねれば河口へと混ざりて澱む 源流めざす
清流に手をかざすのではない、心の中に清流を持つことが真に大切なこと。
2020年5月30日
短歌 ミルク