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短歌のリズムで

言の葉が群れをなすかな鰯雲 暮れゆく空で歌になるらむ

「デタラメ」と「嘘のような真実」

自分の世界、自分の常識観、自分の一般論から少しでも逸脱するような世界のことを信じられない人達がいます。
日頃の生活の中で地道に培われた観察力や想像力があれば、言葉や行動の端々で容易に真偽を判別出来ることも、自意識に囚われてしまうと猜疑心の方がそれを上回ってしまいなかなか真実に辿り付けないことも多いのでしょう。

昔ある友人が私の家に遊びに行きたいというので、「来ても良いけれど命の保証はしない」と笑顔で答えると、「そんなことなどないはずだ」と言わんばかりに是非是非と言うので連れて帰ってきました。
(ちなみに酒乱の親父のことも散々ネタのように話していましたが、どうも私が大げさに盛って話していると穿って見ていたようです。)

夕方過ぎに玄関を開けたときには既に台所で修羅場が展開されていて、瓶の割れる音と、飲んだくれ親父の怒号とが、間髪入れずに友人の耳に入った訳です。温和で平和な両親しか見たことのない友人は、今までに見たことがないくらい青ざめていて、震えが止まらない様子。数分も経たずに帰ってもらったのですが、うちでは日常茶飯事の光景も相当衝撃的だったようで、それ以来その友人が家を訪れることはありませんでした。

昔から私は滅多なことでは嘘をついたりいたしませんが、どうも話が常人離れしていることばかりで、なかなかそのまま受け止めて信用してくれる友人もできませんでした。
私にとっての日常は、確かに面白くなく、どうしようもない袋小路のような世界だったのかもしれませんが、それを他人に言ってみたところで何が変わる訳でもないと早くから悟っておりました。それはそれで私の普段どおりとして、格別な感情を持ったことも、人に解ってもらおうと思ったこともありません。普通を装っているように友人には見えたのかも知れませんが、装うも何も面倒臭いのでスルーしていたという感覚が近いのかも知れません。

環境の違いは大きく人の思考や行動に影響します。
友人を不幸だとも、不憫だとも思ったことはありませんが、自分とは洞察深度が決定的に違う人だということは解りました。それは育った環境に起因することのような気がして、その人に原因など無いのかも知れないとも思いました。
私がたまたまその能力を磨かなければならない状況に長く置かれたが故の経験値を持っていたに過ぎないというだけのことだと思います。出来れば面倒な事や厄介な人物に関わることが少ない方が、穏やかな人生になることは間違いのない事実です。

しかし哀しいかなこの能力は、至る所で圧倒的な違いを見せつけます。まるで百聞VS一見の戦いのように、明らかな結果の違いが現れるのです。それは数値に表れるような成績ではありません。人としての対人スキルや交渉、ディベートなど、ビジネスに限らずあらゆる場面で実感できる力として無意識に行使して感じることができます。
当時の友人のようにこの能力を知らない者にとってはある種の「鋭さ」として映るかもしれませんが、それほど単純でもないような気がします。

社会に出てからも大いにこの能力に助けられて、人を見る眼が養われました。見えている人と見えていない人の間には、マジシャンと観客ほどの差が常に保たれています。
見えている人にはできて、見えていない人にできない事はたくさんありますが、その一つに

「デタラメ」と「嘘のような真実」を見分けることができる、というものがあります。

まさかこの能力が後に短歌において活かされるとは、私は夢にも思っていませんでした。
「知っているふり」「経験したことがあるふり」「見たことがあるふり」など、見せかけだけの張りぼてな歌を見分ける際に、大いに役立っています。
もちろん想像だけで歌を作ることが悪いことだというような、そんな単純な論理ではありません。想像や空想の中であっても破綻しない設定や考え方を用いているのかどうか、それを判断するために使っているのです。
私には「デタラメ」な歌は薄っぺらで地に足がついていないように見えますし、「嘘のような真実」の歌は頑として動かない巨岩から放たれたような凄みを感じます。
「雰囲気」は何処まで行っても「雰囲気短歌」にしかなりません。

そして自身の作歌にも活かされていると思います。
臨場感、ライブ感、情景や詩情の広がり方に、決して無関係だとは思えません。
一見不自然に思える出来事の裏側に丁寧に視野を広げて、カチッと固定された歌意へ収束するように歌を組み立てることを自然に行っていたように思います。
酒乱の親父は想定外でしたが、もう一つ読書という友人がきちんとこの能力の礎となってくれていたと確信しています。読書を続けることも、この能力を磨く修練となるのでしょう。やはり「作る」ことよりも「読む」ことは重要です。

「マジシャン」として読むのか、「観客」として読むのか、それは大きな違いとなることでしょう。

・ 真実は口をつぐんで眼をそらす だから察する気付かれぬよう

ほんの少し行動の先が読めるならそれは予言だ。予感ではない。

2020年6月1日
短歌 ミルク
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プロフィール

HN:
ミルク
性別:
非公開
趣味:
頭の体操
自己紹介:
気づく人だけが手に入れられる
輝きを求めて、日々の宝探しを
楽しむように短歌のリズムで進む
足あとのようなものです。

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