本当は感情の度合を測れるものがあって、その人ごとに表されれば人同士が揉めることなどないのかもしれません。それがないから「空気を読む」なんて能力や、白目と黒目が必要になったのでしょう。あらゆるものを一旦量(数値)に置き換えて私たちは生活しています。
人のものさしの目盛りは変えられませんが、自分のものさしの目盛りは自由に甘くすることも辛くすることもできます。とにかく自分のやる気や覚悟次第です。
時に(やさしさ)は(目盛りの甘さ)と勘違いされたりします。(寛容さ)なんて言葉で濁されたり、(認め合う)なんて宗教的な言い回しをされたりして、無理やりに違う目盛りで一つの物事を測り合う様子に、価値判断の難しさを感じることもあります。
「感動沸点が低い」という話の根本は、この甘々な目盛りによるところが大きいと思っています。自分の心の中で、できそうもないことをできそうもない方向へ追いやってしまうと、さらにできそうもない所へ行ってしまって到底できそうにないことになってしまいます。かといって、簡単に出来たことを喜んでいると、出来る度に喜んで、そのうち出来ることが増えて喜んでばかりいるということにもなって、いずれにしても何か教訓を得るとか、新しいことを発見するということからは遠ざかってしまうのではないかと思います。
何にでも感動するということは、もはや何にも感動しないのと同義です。
それでも、いつまでも初心者マークを貼っているからと自分に言い訳をするのでしょうか。
短歌は目盛りの正確さを問うているのではありません。
いびつな目盛りでもいいけれど、目盛りで測れないものを見失うなと呼びかけています。
自分のものさしで測れなかった出来事も、詠んで感じて認識しろと諭しているとさえ思います。
一般、安定、常識、普通、ありきたり、人並み、実はどれも明確な基準がないものばかりです。単純に多数派だからというわけでもありませんし、それだから幸せになれるとか、幸せだとか、そんな訳でもありません。
目盛りを厳しくつけるのも、甘くつけるのも自分が決められることです。
「なぜあの人にはこんな景色が見えるのだろう?」ではなくて、
「なぜ自分にはこの景色が見えないのだろう?」です。
目盛りのつけかたを学ぶことも、短歌を学ぶ上で大切なことのような気がする年の瀬です。
・ ものさしは時に窮屈自らのテンションさえも目盛りのとおり
比べるという遊びにも飽きたとき、人は測れないものに憧れる
2019年12月29日
短歌 ミルク