有名なゲームソフトの物語の中に、とても哲学的な一節があります。
「人は見たいもの見たいように見る、見たいと思っている結果を望んでいる」
この一節と似たような事を短歌サイトのコメント欄で拝見したことがあります。
作った短歌の解釈を巡ってのやりとりだったと記憶していますが、歌の解釈に翻弄されて、作歌を迷われている方に向けての言葉として投稿されておりました。どんなものでもそうですが、作品の受け取られ方については依然として大きな二つの命題が付きまといます。
短歌においてもそうで、ことあるごとに短歌は作歌した人のものか、読んだ人のものかという問いかけが何度も起こっています。
私は一貫して作歌した側というスタンスであるということを、このブログでも何度も取り上げてお話させていただきました。
その根本は受け取る側(読者)があまりにも自分勝手でずさんで、思慮が足りないことに対する怒りにも似た感情と、それを逆手に取った前衛芸術気取りの歌人が多く存在することに対しての憤りにあります。
「自然の理(悟り)を人に伝える(解らせる)ために言葉を託されている」
大仰な言い方かもしれませんが、ど素人の私ですらそう感じています。
本能に添うだけで、種を存続するためにだけ必死に生きていると思われている自然界の生き物も、もしも人との交流を図る手段があれば、言葉があれば、きっと伝えたいことはあるはずだろうと私は思います。それは子供の描くメルヘンのような、脳天気な考えなのかもしれませんが、私はそういう考えの中にこそ想いを掬う小さな気持ちが芽生えると信じています。事象の断面に現れた塵のような輝きを掬えるのか見過ごすのか、こんな大事なことを読者の気ままに任せてなどおけません。
私達が見逃してきた光の中には、深刻な物、辛辣な物、優しい物、麗しい物、いろいろな物があるでしょう。極端に言えば人が生きていくだけなら必ずしも必要ではないかもしれない出来事を、「見たくないから見ない」「そう見えないから解らない」として済ませてしまうことは、食物を始め連鎖の頂点にいる人間がするべきことではないような気がします。
もっと言えば、ただの石ころにも言い分があるのでしょう。
何も有名な花鳥風月だけが幽玄なのではありません。
とめどなく流れてゆく時間から、私達は光を掬い取ることが許されて、そしてそれを言葉や文字にすることが出来る存在として生かされているのではないでしょうか。
自分のことも結構、ああだこうだと互いに共感し合うも結構ですが、歌が導く本当に大切なことを見失わないで作歌することを決して忘れたくはないのです。
ゆるい歌やつぶやきのような歌も時にはいいでしょう、しかし書道教室でデタラメな字を気ままに書いて、「書道やっています」とか「書家」ですなんて恐れ多くて名乗れないと思います。とにかくゆるゆるでグダグダな今の短歌を取り巻く人達の中で、自分だけは背筋を伸ばして姿勢を保てるように、真摯に取り組んでいきたいと思います。
温かさもあってか、水仙が群れている丘で初めてまじまじと花の裏側を見ました。
あれだけ強い黄色のくちばしを太陽に向けているポジティブな花の裏側は、真っ白な花弁の根元だけうっすらと黄色が滲んでいました。まるで強がっている心の裏側を見せられたようで、とても人ごととは思えませんでした。きっと多くの事象にもそんな声にならない声が隠されているのだろうと、そしてそれを見失ってはいけなのだろうと、水仙の背中が導いてくれた午後でした。
● 陽に向かい叫べというの水仙は声にならない黄を滲ませて
託されているというのは大げさか、それでも生かされている以上、使命を携えていたいと思う。
2020年1月11日
短歌 ミルク