最近やたらとこの仕組みを使ったアトラクションやイベントが増えて、もてはやされている感の強い技術ですが、VR(仮想現実)やAR(拡張現実)といいこのプロジェクションマッピングといい、実際には使用するべき事柄が違うのではないかという気がしてなりません。
記憶にも新しいものですが、ついこの間まで3Dテレビなるものが革新的と評され、販売されておりました。ゴーグルを付けたり、ついには裸眼で見られるような技術も開発されたり、大いに盛り上がるかに思われたのですが、蓋を開けてみると鳴かず飛ばずのままで、やっぱり普通の液晶テレビが大勢を占めています。
商談中にもよく話題に出るこんな会話の中で、私は一貫してお話ししていることがあります。
「人の感覚を超えたものがあったとしても、それは決して流行しない」
それは様々な感覚器の性能に限界がある人間ならではの習性だと思っているからです。
鷹なみの視覚、犬なみの嗅覚、コウモリなみの聴覚、ナマズなみの味覚、そして昆虫なみの触覚、もう、想像しただけでも大変そうです。スーパーマンの苦悩が眼に浮かぶようです。普通の人間なら1時間も生きていられないほどの衝撃かもしれません。
それぞれが生きていく為に必要最小限だからこそ、日々制御可能なのだと思います。
そしてそれは感覚器が伝えた信号をどう受け取るかという、受容する側に委ねられています。
単に性能が良いというだけでは受け取れない情報があります。
短歌や俳句の捉える世界とは、まさにそのような世界であると思っています。
すぐ近くに居ながら見逃してしまう景色、ちょっとした言葉から発せられる想い、消え入りそうに小さい物音、そんな普通の日常から浮かび上がる感慨を捕まえる小さなアンテナがとても大切なのです。一見大きく性能の良いアンテナの方が感じる能力が高いと思われがちですが、悲しいかな人にはそれを処理する力が備わっていません。
身の丈の自分を保つことは、身の丈の自分の視点を保つということだと思います。
身の丈を外れた時点で、もう視点は失われています。
大写しになった景色や増幅された鳴き声に誘導されてはいないでしょうか。また自分自身も、誇大に何かを表現することに加担してしまってはいないでしょうか。
インターネットはつまらない日常をドラマに変える手品のようなものです。
おかげでリアルな手品はテレビではほとんど見られなくなりました。(ネットで多くのタネ明かしがされている為です)
良いことも悪いことも、拡張、増幅、拡散することを強いられている中で、些細な発見をすることの方が難しくなっているのかも知れません。
それほどに、皆大きな影に酔ってしまっているのだと考えさせられるのです。
手の届く範囲の感覚、手の届く範囲の言葉を丁寧に探し繋げてゆくことを、疎かにしてはいけないということを忘れずにいたいと思いました。
● 虚勢張るネットの中で大写しされているのはいつも影だけ
拡大解釈された自分に追いつくことは大変だ。偽物は常に張りぼてなのだから。
2020年1月8日
短歌 ミルク