何気なく日常で使用している道具には、もう少し考えるべき所があると感じつつも使い続けてしまっているものが沢山あります。
個人的に最も不便だと感じている物は「傘」と「自転車」です。いずれも自立できないものの例えにもよく用いられるものですが、この二つだけはもっと便利なものがないのかと、真剣にそのデザインや成り立ちに疑問を投げかけたくなります。
道具が用途のすべてを補えるとは思いませんが、捉えどころがズレていると進化するどころか退化してしまうことの具体例として、傘や自転車はあると思っています。
傘は言うまでもなく、もう半分はファッションと言ってもいいくらい挿しているのに濡れてしまいますし、片手を塞いでいるにもかかわらず結局は濡れてしまうというものを信じて使い続けている人の多いことが不思議なくらいです。
自転車も、競争する人以外は2輪でなくても良いと思っていますが、なかなか3輪や4輪の倒れない自転車を見かけることは少ないことですし、バランス感覚云々という方もおられますが、その養った感覚が一体他のどのようなことに役立つのかもはっきりしていません。二十一世紀が来ても結局自立できないままダラダラと車道の左側を走らざるを得ない、極めて危険な乗り物という扱いになってしまいました。
しかし、安価で手軽なのだからそれで十分なのではないかという意見も、もちろんあるでしょう。確かに安価で手軽、入手も普及も管理もし易い道具です。そうやって放置した結果が山のような傘と自転車の産廃を産んでいるのです。捨てられる中でもこの2つは数が突出しています。何も考えないで作ったり使ったりしていると、こうなるという悪い見本だと思います。
私たちは一度定義付けされてしまったものに、あまりにも安易に添いすぎていないでしょうか。その善悪も真意も理解しないまま、ただ流されるように使ってはいないでしょうか。
言葉という道具も然りだと思います。
和言葉や古語表現、旧仮名遣いなども、本当にそれが優れた言葉や表現なのでしょうか。
心の中にあるものを余すところなく表現できるのかどうか、私は甚だ疑問に感じています。
現代語も含め、言葉は決して万能な道具ではありません。これだけ多くの人や時間に揉まれてきた言葉でも、どうしても追いつけない、踏み込めない、そんな感慨がまだまだ沢山あります。それは表現者の未熟という人がいるなら、極めて愚かな人の奢りです。
文法や活用に於いて、細かな指摘をするような評を書かれる方もいらっしゃいますが、短文の詩形にルールなどあってないようなもの、ルール通りに書いたからといって必ず優れた詩や歌になるとは言えません。どうすれば、この描けない景色に近づくことができるのか、そのためのアプローチの一つにしか過ぎません。
一体、修練して磨かなければならないのは、何なのでしょうか。
文法でしょうか、言葉でしょうか、活用形でしょうか、表現技法でしょうか。
いつの時代のものであっても、一つ一つの言葉を丁寧に読み解きまた組み立てながら、心に添ってそぎ落としてゆくことがとても大切なことではないでしょうか。
現代はポピュラーソングの影響か、「い」抜き「ら」抜きの言葉が横行してとても酷い状態になっています。このことが短歌を(字数当てはめ遊び)に堕落させている元凶でもあります。
「い」抜きや「ら」抜きが絶対ダメだということではなく、抜かずに熟考に熟考を重ねたけれど、抜くことでしかニュアンスが伝わらないというレベルまで検討したかということなのです。旧仮名にしても然りです。最善手として使われず、ただの雰囲気ツールとして使っているだけの歌人があまりにも多いと思います。そして多くのプロ歌人もその中にいます。
このままでは短歌も傘や自転車のように、産廃に成り下がるかもしれないということが冗談には思えなくなってきたのは、きっと私だけではないと思います。
● 磨くべきものは心か本則か言葉は決して万能ではない
短歌は温もりであり熱ではない。火を詠えても火にはなれない。
2020年1月15日
短歌 ミルク