様々な職場を経験して参りましたが、昭和の時代はまだ黒電話が至る所にあり、新入社員にマナーの講習をする企業も多くありました。私が初めて入ったサービス業の会社でも、一通りの接客や電話応対への講習がありましたが、そもそもの社員さんの中に問題と思われるマナーが多発しており、形骸化し、硬直化した企業の一端を見た思いがしたことをよく覚えております。
相手がお客様の場合には、通話を終える際に、「失礼いたしました。」「ありがとうございました。」などの終話の言葉から、相手が電話を切ったことを確認して、受話器を持っていない方の手でフックスイッチを押して切り、静かに受話器を乗せる。と教えられたものです。機構的には電話が切れた後ならば、受話器をどう置こうが相手に何かが伝わる訳ではありませんが、それでも(静かに受話器を乗せる)というところが、マナーとしての肝なのだということは何方にもわかることだと思います。
切れている受話器を置くという動作について、また、ただ電話を切るためにフックスイッチを押すという動作について、相手のいたことを無視して考えるならば、また効率や手順を重視したならば、わざわざ別の手で押さえて切って、そのあとゆっくり受話器を置くなんて考えなくてもよい訳です。相手が無機質なマシンではなく人間だからこそ、(見えてはいないこと)について配慮する必要があるのです。余談になりますが、実際私の上司などは、投げつけるように受話器を置くクセがあり、フックスイッチの両脇のガイドや受話器そのものを何度も壊した現場を目にしたことがありました。
電話を切るという一つの動作に過ぎないことですが、(ただやればよい)ことと(配慮をもってやるべき)ことには、伝わり方や受け取り方に大きな違いが生まれてしまいます。
短歌はどうでしょうか?
強く抗議の意志や反対の気持ちを込めたいということで、過激な言葉や表現でハードランディングすることが、果たして正解なのでしょうか。逆に言ったか言わないかわからないくらいの弱さで、伝わっても伝わらなくてもいいという気持ちを曖昧な言葉ばかりで濁してしまうことが正解なのでしょうか。
やはり読み手に対する配慮のようなものが必要であると感じています。
歌を読んで、自分の事や身近な出来事として脳内でプレイバックして映像化してもらう際に、映像をまっすぐに見て自分の詠んだスクリーンの景色に近いものを見てもらえるようなヒントを込めておかなければなりません。
掛かってきた電話が無言であった場合、問答無用に(いたずら電話)だと言えるでしょうか?受話器を取った人、その周りにいる人、相手の置かれた環境や状況など、いくらでも無言の根拠を探すことが出来ます。私は何度も申し上げますが、歌は詠み手のものだと思っておりますので、このような場合に根拠をぼやっとしたものにして読み手に投げてしまうことは、極めて自分勝手な作歌だと思っております。少しの時間考えただけでも、オレオレ詐欺から結婚のプロポーズ、事故にあって死にかけている状況とか、家出していた家族からとか、いくらでも異なる状況が推察されます。
これらは日常あまり遭遇することのないことが起こった時、決まって顔を出す感情であり、経験です。ですから余計に心や記憶に強く刻まれています。あたりまえですが強く刻まれたものは強い言葉を使って表に出て来ようとします。歌はその勢いを一端受け止めなければなりません。切ったことを確認し、フックスイッチを手でゆっくりと押さなければなりません。見えなくても、それは相手に伝わるからです。たとえ無言であっても、その意味を考える、受け止めた上で考える。それは短歌も同じ事だと思っています。
● 無言とは言葉にできぬ感情が込められて満つ杯に似て
無言の表現「・・・・。」あなたならどんな言葉で置き換えますか?そしてその根拠とは。
2019年11月3日
短歌 ミルク