三密が日々叫ばれる中、実演販売や宣伝販売の集会に年配の方が大勢集まっておられます。
このような販売方法の集客方法として、「タダでモノを配る」という手法が未だに使われておりますが、まだまだノってしまう人がいるものだと、驚いてしまいます。
自分の親も多分に漏れずですが、他人が何か得をしていると、自分が逆に損をしているような錯覚からいつまで経っても抜け出せずに一生を終えようとしています。確かに厳しい環境で育ち、お小遣いもまともにもらえなかった世代からすれば、タダ同然でモノをもらえることに条件反射的に動いてしまうのかもしれません。物質がどんなに豊かに生活を彩ったとしても、心の中は未だくすんだ灰色のまま歳だけを重ねてきたようで、特殊詐欺被害はいつまで経っても減らないままなのはよく理解できます。
タイトルにも書きましたが、母の口癖である「元を取る」の元とは一体何者なのでしょうか。時間でしょうか、気持ちでしょうか、はたまたその両方でしょううか、体を動かした経験でしょうか、心を傾けた年月なのでしょうか、そもそも元の量など定義できないはずのものなのに、元を取る、埋め合わせをする、という表現がよく使われます。
結婚してからの夫婦生活や家族が増えてからの日常に限らず、毎日はほぼ誰かの何かの犠牲によって成り立っています。大人や子供や老人や、突き詰めて言うならば人以外のものにまで、何らかの負担を強いてその恩恵で生活を続けているわけです。お互い様と呼べないくらいの格差があったとしても、それは比べる対象で如何様にでも変化する掴みどころのない基準と言えるでしょう。幸せはまるで水のように形を変えるものです。
見えない程に細かい粒の集まりでも災いを及ぼす程の濁流になることや、儚さと美しさに溺れていればその重さを忘れてしまうほど形態が違う雪のように、我々はあまりにも幸せの姿形に惑わされてしまっているのかもしれません。
そして幸せの天秤の片側に載せられるのは決まってお金や愛情と言われます。
人は本当に数えること、比べること、無い物ねだりをすることが好きな生き物です。
ですから測れそうにないものまで、測ろうとするのかもしれません。それが誰かが勝手に作ってしまった基準であったとしても、疑うことすらしない。とにかく約100年近くの人生の間に、めいっぱい詰め込めるだけの幸せを入れなければ気が済まないようです。
境遇に恵まれず、幼い頃から苦労が絶えなかった人生を嘆き、他人を妬み羨み、あげくの果てには自分が選んだ人生のパートナーにさえも、愛情を返せというのです。苦労をさせられたから、自分にはそれなりのご褒美があってもよいだろうと宣うこの思考には、その根本に矛盾があるにも関わらず、人はその判断を誤ってばかりいます。
何も数字にすらできない。まるで雰囲気です。それでもすべてをお金に置き換えて、誰かの有償作業に置き換えて数値化したいというのなら、もはや感情は必要ないと言っているようなものです。当の本人はそれで生きてゆけるのでしょうか。
「うたよみん」に後述の歌を投稿した際に、弾くの対象として(おはじき)という少しややこしい例えを読み込んだのは、「お金」と「おはじき」の決定的な違いを表現したかったからでした。お金をおはじきのように弾いて遊ぶと、それは禁忌のように厳しく叱られたものです。道具であり、ただの金属の塊であるお金に対しては思いの外厳しくその扱いを戒めることに対して、そのままでも十分美しく趣深くあるおはじきは、何の値打ちもないもののように簡単に弾き飛ばされてしまう。一体どちらが、「愛情」に近いものなのでしょうか。その問いかけを込めた上での投稿でした。
聡明なお二人の方にとても深い所まで読み解いて頂いて少し驚きましたが、お二方とのやりとりも含めてこの歌の作る世界観ということが言えると思います。
歌意をきちんと一点に定めておくと、そこに向かって幾つもの流れが出来ることがあります。それは一首とはいえ、豊かな時間と感慨の流れの川となって作者と読者の間に生まれる特別なものだと感じています。
読み解く人がいて初めて歌は心の川を流れてゆけるものだと、お二人に勉強させていただいた貴重な経験でした。
・ つくしたと悔やみ憎しむ愛情はお金のように弾かないもの
犠牲そのものが美しいのか、犠牲の心が美しいのか、犠牲を隠すことが美しいのか。
2020年4月23日
短歌 ミルク