ニューウェイブやライトヴァースと呼ばれる短歌の傾向の反対語が「普通の短歌」だと知りました。何をもって普通を定義するのか、それそのものが議論の対象のような気もいたしますが、一般の方が起こった事実に近いことを素直に平易な言葉で詠まれるような歌が、そう呼ばれているのかもしれません。
私はそもそもそういったニューウェイブやライトヴァースや中澤系、ポストニューウェイブと呼ばれる短歌、あるいは言葉遊びに終始するような新鋭歌人の歌には、全くと言ってよいほど興味がありません。
「なんじゃこりゃ」か、「意味不明」か、「知らんがな」か、「勝手にどうぞ」くらいしか、
突っ込めないからです。こういった人達の歌には、圧倒的にリアリティが不足しています。
重みのある経験や感情や言葉といったものが、何処にも宿っていないからです。
ことさらに飛躍、飛躍で大げさな言葉や表現が続きます。自分に近い世界から同じ感覚を見いだせない稚拙さを、言葉によって無理やりに補おうとしている様子がありありと解ります。
架空の世界を描く時にも、架空を導くリアルが必要です。原因があっての結果とは言いませんが、石けんはすべるからシャボン玉に乗れたとしてもすべるかなという、ファンタジーへの導入を誘うような無理のない設定が必要だと思います。
それは不粋だとか、読者の想像力を削ぐとか、訳のわからないことを言う歌人もいらっしゃいますが、私に言わせれば事象の断面の体をなしていない歌の方が余程問題です。
歌を発表したら、もう歌人の手を離れてそこから先は読者のものになる。などと、よくもプロの歌人が言えたものだと呆れてしまうのです。まるで数打ちゃあたるで、「作者の想定も予想もしないような素晴らしい解釈を付け加えて下さいな」とでも言っているかのように聞こえます。言葉は人と違って、そんな邪で欲と自尊にまみれることを望んではいません。誤解を恐れずに申し上げるなら、言葉が勝手な解釈を許さないと私は考えています。
言葉が許さないのであれば、それによって作られた歌ももちろん勝手な解釈は許さないはずです。「想定した歌意に収束する」と以前に述べたように、言葉を真剣に選んで組み立てて作った歌ならば、きっと歌意への道筋は真っ直ぐなはずです。切り取った事象の断面は唯一無二の断面です。見る角度によって色味や輝き方が異なったとしても、断面そのものは少しも澱むことなく存在しています。断面から発せられた輝きを捉えたものが歌になるからこそ、すべての解釈は断面に向かって収束しなければなりません。
理解できないから繰り返し反芻することを、まるで深く分析して味わっているかのように評する愚かな歌人もいますが、元々事象の断面を捉えていない歌ならば理解することなどまるで不可能に近いことです。地図の無い宝探しをしているようなもので、永遠にその場所には辿りつけないでしょう。作った本人でさえ、その場所が解っていないのですから。
言葉や落差の雰囲気だけをオシャレな感覚だと弄び、生身の人の生活や実存に深く入り込んでいない歌など、到底短歌とは呼べないでしょう。世間はそれを良く知っていて、短歌もどきをつぶやきとひとくくりにして、サブカルチャーにしてしまっている現状です。
時間や時間によって傷ついたり荒んでしまった心が歌を留めることを許さないのでしょう。辛いとき、苦しいときに本当に胸に抱いていたい歌は、心の経年劣化に耐えうる歌だけです。壮年になったら、実年になったら、老年になったら、忘れてしまっているような歌は、元々その程度のものなのでしょう。
良い歌はその人の生き様にこびりつきます。
かさぶたの痕のように指で触れれば鮮明にその瞬間を巻き戻し、再び感じろと触発するのです。まるで決して朽ちることのない心の額縁に掛けた絵画のようです。得てしてそのような良い歌は簡単な言葉で綴られた、ごく普通の歌であったりします。海外の暮らしが長かった人が、梅干しやお茶漬けを無性に食べたくなるようなものかもしれませんし、枯渇した何かの本能が欲しがっているのかもしれません。
あまりにも「私」や「私の妄想」がこびりついてしまった現代短歌には、ヒエラルキーの再構築が必要なのかもしれません。いずれにしても現在の根拠不明なベクトルとは異なる、全く別の明確な評価基準を持った方向性が求められていると思います。
「選歌や評価の基準を明確にせよ」と、AIが人に問うのは時間の問題だと思います。
・ 自らに焦げ付くものは火にあらず他者に焦げ付く炎を燃やす
自意識を遠ざけてこそ淀みない「普通」を詠えるもの。言葉を見つけるのではなく断面が言葉を選ぶ。
2020年7月5日
短歌 ミルク