幼少の頃から酒やたばこのお使いによく行かされておりました。
タバコ屋のおばちゃんも事情はよくご存知で、何回かに一回、当時20円か30円くらいのチューインガムをおまけしてくれていました。
習慣というものは恐ろしいもので、たぶん誰よりも多くガムを噛んだ私は優れた記憶力を手に入れ、誰よりも多く酒を飲んだ父親はアルコール中毒になりました。
今でもガムはそうですが、味などというものは瞬く間に消えてしまいます。
おそらくその本質はフーセンを膨らませる為のもので、たまたま口に入れるから味が付いているという程度のものだと思います。確かに味は誰でもすぐに理解できるものの、フーセンを膨らませるなんとも言えない緊張や、再び噛み始めて過ぎる微睡みを言葉で表そうとすると、途端に難しいことのように思います。
何でもそうですが、本質などというものはすぐに理解出来ない奥深くに仕舞われているものだということを解った上で取り組まなければなりません。
あまりにも表面上のフレーバー(味)に囚われて噛むこともせず吐き出してしまう、短歌サイトにおいてもほとんどの参加者はこんな感じです。
ガムを噛む理由が数え切れないほどあるはずなのにそんなことはお構いなしで、ただただ別のフレーバーを欲しがっていて、言葉の抱えた深い意味を知ろうともせずに自分の好奇心や承認欲求だけを満たそうとしている人の多さに愕然としてしまいます。
まるで流動食のような、ただ必要最小限の養分を摂取するだけの短歌など、短歌ではないし世の中に必要でもありません。つぶやきと短歌は違う、言葉や短歌は流動食ではないのです。歯を保ってきちんと噛み砕いてこそ、含んだうま味と味わいを感じることができます。表面だけの甘いとか辛いとか、そんな意識を超えて歌のバックボーンを丁寧に噛んで確かめることが、短歌を取り巻く環境で圧倒的に足りていません。歌が日に日に劣化していることに一体誰が気付いているのでしょうか。
中学時代の保健教師に教わった、「ジャパニーズ・チューインガム」(沢庵)のことを思い出して、私の目指すのはこの沢庵で良いじゃないかと納得しながらこの文を書いています。
確かな歯ごたえがあり、それでいて細かくなっても味わいは続いていて、米を引き立てて側に立ち、椀を綺麗に整えて終える。鮮やかな色でも強烈な味でも、香りでもない、それでいて人の心のすぐ側に立ち続けることを許された、そんな沢庵のような短歌を目指して、いつまでも噛める歯を持った人でありたいと思いました。
● 食物も噛み砕かねば身にならず言葉の噛めぬ人の多さよ
どうりで歯当たりや口当たりの良い言葉だけ重宝される。味わいなど知る由も無い。
2020年1月6日
短歌 ミルク