お遍路から帰った知人から、お接待も考えものだという話を聞きました。お接待の文化そのものは、土地の人々の温かい信仰心から芽生えたありがたい習わしであると思いますが、最近はお接待ならぬ「お節介」に近い行動も増え、難儀する場面もあったと言います。
田舎では家々や個々の個人のパーソナルスペースは、いい意味で曖昧になっている所もあり、それが都会にはない人間らしさを生む源泉でもあるのですが、一方でセンシティブな話題や関係にも土足で踏み込むような、図々しさと捕らえられかねない行動にも繋がります。知人は歩き遍路でお参りしていましたが、リュックにも到底入りきらないくらいの八朔や洗っていない野菜や自宅の庭の花、自作の絵はがきやキーホルダーなど、ありがたい気持ちの反面、何か違うぞという違和感を抱きながら歩くことも多かったとのことでした。
お接待の心は、元々同行二人という言葉に象徴される「見えない大師様」への畏敬と感謝の現れたものです。自分の代わりに、大師の導きに添って苦行に挑むお遍路さんにご苦労さまと、どうぞ宜しくお願いしますという意味を込めて接待を施すのです。
おせったいとおせっかい、たった一文字の違いで、それは全く別の意味になってしまいます。自分が何かをしてあげたい気持ちが先に出て、また自分が誰かの為に行っている行為そのものに酔ってしまって相手のことが疎かになった時、行為は簡単にお節介に変わってしまいます。挨拶だけでも、笑顔だけでも、心は潤います。物が無ければと考えてしまう気持ちもわからないではありませんが、折角の行為がお節介になってしまっては逆効果です。多くの日本に住む人が持っている「察する心」を常に意識して、コミュニケーションをとりたいものです。
隙間なら水は染みこむ無理やりにくさびを打てば石は砕ける
心の視点を動かせなければ、気持ちは伝わらない。見えない大師様はどう思われるのか?
2019年8月11日
短歌 ミルク