ボウリング場に行くと、ボールを持つのがやっとといった子供が遊技している姿を見かけます。施設もその点を配慮して、ガターとなる溝を一時的に埋めて平たくしたり、ガードするパネルを立てて落ちないようにしたり、キッズレーンやバンパーレーンと呼ばれているそうですが、そんな設備で対応して楽しめるようにしています。
子供や障がいを持たれた方が楽しむ際の特別な設備や配慮ですが、昨今はこれを一般の人向けにも解放して、より難易度を下げた形でプレイできるようにしている所も多く見られます。
一つのスポーツ競技という観点から、この難易度を恣意的にコントロールするということがもたらす影響を見てみると、必ずしも良い影響だけが及ぼされるのではないことがわかります。ボウリングはその悪影響を理解しないまま今に至っている、珍しい競技だと思います。ですから、素人でもわかりそうなくらいルールがとても緩いのです。
そもそもボールが均一ではないし、一投目と二投目で違うボールを使っていいとか、補助具を付けて投球してかまわないとか、とにかく難易度を下げる方向にしか思考が働いていません。(かと言って商売に繋がっているかと言えばそうでもありません)
単純な話ですが、こんなことを他のスポーツで認めたら大変なことになるでしょう。
ある程度厳格なルールが参入や参加の障壁となって、ある程度のレベルを保ちプロ競技としてそれらを成立させているのだと思います。そうしなければ、本当の意味での競技力や技術の向上がないと判断しているからこそ、間口を狭くしてでも競技の奥深さを求めているのだと思います。
ただ間口を広く緩くしただけで、その競技の発展や向上に繋がるでしょうか?
同じ事は、俳句や短歌のような文芸にも言えると思います。
まるでバンパーレーンで投球するかのように何処へ投げてもいくらかピンが倒れて、そしてそれについて誰かが何かを言うこともない、意味のないよいねが押されるだけの状態を続けているだけのような気がしてなりません。
一体何処を目指せばよいのか、パーフェクトの300点も存在しない短歌には、その「何処」ですら明確になってはいません。自分自身が厳しくしていかなければ、短歌の力は培われないのです。おまけに何処が良くて何処が悪いのかを知ることがとても難しいことも、影響していると思います。
これらに現代において一流の扱いを受けていないことの答えがあるような気がしました。
自らが道を狭く高くして望まなければ、与えられた環境だけでは突き詰めることに限界があるようです。マイルールで良いのかどうかはわかりませんが、自身が目指す300点を達成するためには、誰でも何処ででも通用するルールで取り組まなければ結果は出せないのでしょう。親しまれても生き残ることができなければ、いずれその競技そのものが無くなってしまうことになるのですから。
これからの俳句や短歌がそうならないことを祈るばかりです。
●神様の辞書に「まぐれ」は無いはずだ 歩き続けて地平は見える
まぐれを狙って作り続けるのか、生涯一首を目指して作るのか、それは自分次第。
2019年11月30日
短歌 ミルク