「感じない人は幸せな人だと思います。」確か中学生の道徳の時間に、教育実習の先生に私が放った一言です。先生は一瞬たじろいで、何故かと問いただしました。
私は、もう感情のスポンジが幸せで満たされているからだという風に答えたと思います。
満たされていても満たされていなくても、心のスポンジを絞ることは出来るのだけれど、普通に満たされている人は絞ったりしないものだと、皮肉を込めて話したことを思い出します。
現代の歌人においても、ハンディキャップを負わなければ、あるいは負ってはじめて気付いて短歌に詠むという歌があまりに多い気がしています。もう何処をみても嘆き節一辺倒で、飽き飽きします。おまけに選者まで同情バイアスに丸め込まれてしまっています。
根本的な想像力という以前に、後ろ向きな事ばかりで何故前向きなことに気付けないのか、その発想のなさに愕然とします。いったい何時まで金太郎飴のような歌ばかりを見続けなければならないのでしょう。
短歌や俳句は、真っ先に「自分」というものをスポンジから絞り出してから、始めなければならないものです。そうしなければ、結局は自分に纏わり付いたものでしか、作品が作れないからです。自分を捨てて、普段は自分に纏わり付かないものを吸い込んでゆく、その作業こそが重要なプロセスであると感じています。日記ではダメです。自分に酔ってもダメです。命の入れ物として「自分」を借りている、そんな割り切りができなければ、歌はすべて自分にこびり付いた、誰かのグチと同様のものに成り下がってしまうでしょう。
・ 初夏の陽の混ざらぬ木々よ重ねても重ねてもなお風はみどりで
・ 我を知らぬ人は歌見て我を想う 歌は心を社会に晒す
・ 山の抱く学び舎に落つ星ひとつ蛍のように持ち帰りたし
・ 虫や花、風も何かをつぶやいて小さな声を聞き逃すまい
・ その人の歌のはぐくむ林檎とふ淡き少女の輪郭なぞる
・ 生き物はみな正直で信用を自ら彼方へ蹴ったのは人
・ その人の優しき歌はやわらかく揺り戻される相づちに似て
・ 制御など元から出来ぬそれが人「きりなしうた」を唱えて眠る
※(谷川俊太郎)
・ 仕組まれた成り行きだろうコンビニは日が暮れてから咲く虫媒花
・ 空色を浮かべてすくう透明なゼリーは今も夏への手順
・ 望郷はいわば永遠たわむれの喜怒哀楽も刹那に過ぎず
・ 空気とて清流求むマスク越し澱みを避けて土手を歩けば
・ 森という形容詞なり大クスの倒され五月の陽に満たされる
・ 十代の弦は張り詰め細く鳴りモスキート音を今は聞けない
・ 柔すぎて支えられない決意でも硬すぎればまた砕け散るなり
・ 夕立を君の笑顔が押し返すウレシイもザンネンも雫
・ 若き日に折られた鼻の記憶持ち羽ばたく麦のグローバリズム
・ 風をよみ耳をあてるよ欄干は青い五月のステソスコープ
・ 吐くことで何をきれいにしたいのか詠わぬアサリ砂を抱えて
・ 土草を引くことにのみ費やせば時は雑味をすべて濾したり
2020年9月30日
短歌 ミルク