様々な条件のもとで日々生活をしていることを鑑みても、歌の内容が自分の事以外語られていないものはとても多く、意識というものはいかに自分から離れられないものなのかを痛感します。
スープに例えれば出汁をとるための具材が直接カップに入れられたとでも言いましょうか、「この食材ですよ」「これから出汁を取りました」というアピールに終始し、スープの味やスープを飲んだあとの余韻はそっちのけという状態に見えてしまいます。
何回読んでも「ふうーん」としか返せない、脱力に満ちた心持ちになります。
「ふうーん」に続くのは「それで?」になってしまって、これではまさに愚痴を言い合う井戸端会議状態となり、もうそうなると短歌では無くなってしまっているのでしょう。
短歌は短い無声映画のフィルムにも例えられると思いますが、あくまで再生するのは読者の脳内です。作った人にしか解らないような物語に共感や同意が得られるはずがありません。
再生した人の頭の中で追体験できて初めてその世界観が理解できるのだと思います。
同様に、あまりにもありふれた日常を詠ってしまうと、もう日常過ぎて興ざめしてしまいます。ありふれた日常だけれども「気づき」を伴う経験こそが「ふうーん」を超えた感慨を産むのだと思います。
読んだ短歌に興ざめすることの功罪は、その短歌に留まらないことに他なりません。
詠まれた対象や経験や登場人物に至るまで、すべてが興ざめの対象になってしまい兼ねません。ですから後々に自分の短歌を読み返したとき、どうにもばつが悪い、恥ずかしい状態になってしまうのだと思います。
多くの人との関係性の中で生活している人が殆どだと思います。もしも、たった一人で生活していたとしても、鏡を見れば別の自分が現れます。自分の喜怒哀楽を一旦冷蔵庫に入れて、考えて見ることがとても重要だと感じています。そうしなければ、言葉が自分と読者の間を苦も無く繋いでくれると勘違いしてしまいます。
繰り返しになりますが、言葉は決して万能ではありません。
それを十分理解した上で、より簡単な言葉、簡潔な表現で誰にでも起こりうる事を詠うという姿勢がスタートラインだと思います。
● 知れている卵の中のことなんて殻の硬さは外から解る
殻を割るのだから傷つくのは当たり前、痛みが嫌なら殻に閉じこもるだけ。
2020年2月10日
短歌 ミルク