歌題が難しい言葉の場合は、なかなか同じような表現から抜け出せないことが多いと思います。(うたよみん)の現在の歌会テーマ「砂」についても、皆さんの歌は良く似た解釈や言葉が頻繁に出てきます。
私の歌へのアプローチの仕方は、(気付き)からというのが最もよく使う方法ですが、歌題の単語や成り立ちや意味から発想を広げながら作るという方が一般的なのではないでしょうか。このような作歌の場合、往々にして「自分の景色」にべったり寄り添って作ってしまうことが多くなります。詠い易いこともあると思いますが、自分の視点、自分の経験、自分の価値観に縛られる人が殆どです。景色をのぞき見る穴がどんどん小さくなって、限られた視界から、限られた所にしか眼が届きません。自分の視点や自分の経験を超えて、大きな穴が空いていたら、一体どのような景色が見られるのかを想い描くことこそが、「心の景色」を見ることに繋がり、それによって詠まれた歌は、全てではないにしても多くの人の景色と重なって見えるのだと思います。
短歌について以前に「事象のカステラの断面」と書いたことがあります。
事象なんて少し高尚な書き方かもしれませんが、(単に目の前で起きたこと)や(単に目の前にあること)だけでは、短歌的な事象ではない私は思っています。つまり何らかの(気付き)を持って現れた事こそが、事象ではないのかということです。
ですから私は(観察すること)をとても重要だと思っています。
よくよく観察して、目に見えたことが指し示す物事の綾を静かに辿ってみると、すべての物事には見えてくるそれなりの景色があると思います。そこから自分なりの感動であったり、解釈であったり、悟りであったりを導き出して歌につなげていくのでしょう。
初心者の方も多く参加する投稿サイトでは、#タグに引きずられる歌が殆どで、もったいないなぁと感じています。ツイート感覚なので仕方ない気もいたしますが、(思いつくまま)(なんとなく)(そんな感じ)(そう思ったのです)(仕方ないね)これらのタグはより一層「自分の景色」を誘発します。それ以上歌の世界が広がることはありませんから、とても残念だと思います。
(見えた)ではなく(見る)という動詞を意識して見渡せば、とても新鮮な景色はまだまだ広がっています。
自分が触ったことのある「砂」、自分の目の前にある「カレンダー」に囚われる事なく、より事象に近い景色を探してみることで新たな発見を産むことでしょう。そしてそれは「歌題」の取り入れ方に大きな幅をもたらしてくれると思います。
● しがらみは酒にかこつけしがみつき予定鈴なり師走はたわむ
歌題を超えて心の景色が見えたとき、そのものは言葉以外で表されるはず
2019年12月9日
短歌 ミルク