投稿サイトでは、もう何年も前に作られた歌がぐるぐるぐるぐるとお勧めに表示されて、それはまるで回転寿司のレーンを延々と回り続ける干からびたお寿司のように見えてしまいます。
歌が誰かの目に触れる機会を多く作り出すこと自体は悪いことではありませんが、
何度も見せられて相変わらず新鮮な感動を覚えるような歌には、そうそうお目にかかれる訳ではありません。
まるでインディーズからひょいとメジャーに取り上げられることを望んでいるかのように、SNSには作った短歌を片っ端から投稿し、短歌を作っていることのアピールに躍起になっていますが、肝心の短歌はどれもこれも読むに堪えない自分語りの三十一文字ばかりです。
「自分報告書」とでも言った方がよいでしょうか。
それは短歌が言うところの「私性」などとは異なる性質のものだと思いますが、中身が特定の個人の日常や生活に密着したとても薄っぺらいもので、歌から透けて見えるものに何一つ心を揺さぶられるものがないのが特徴だと思います。
前にも申し上げましたが短歌の最大の敵は時間であり、心の経年変化です。
いつまでも輝きを放ち続けるもの、瑞々しさを滾らせるものは、長い時間の波に打ち勝つ強さも秘めていると思います。そして、いつの時代においても人の心に宿る感情や心情に添った言葉だと思います。流行言葉やただ古いだけの言葉や、自分にしか解らない表現がダメなのは、とても時間の荒波には耐えられないからだと思います。余りにも今この一瞬という薄っぺらな自分時間を意識するあまりに、長いスパンでは物事を考えられなくなってしまった状態では、短歌など作れるはずもありません。
短歌においては、もはや多く作ることも多く読むことも(目にすることも)お勧めできません。
ただの31文字の当てはめ名人になるだけです
しっかりと自分の感性や感覚に合う歌人や短歌を、時間を掛けて読み込んでゆくことが必要だと思います。少々カテゴリが違ったとしても、解る人には解る世界が広がっています。
詩でも、俳句でも、随筆やエッセイでも、小説でも、ドキュメンタリーでも、美しい言葉や輝く表現は眠っているものです。
作歌がただのスケッチになっていないでしょうか?
短歌は目に見えないものを描くスケッチです。
夏休みの宿題の絵日記ではありません。
見えるものやわかりきっていることは極力省き、見えてはいない景色を描くことに心を傾けるべきだと思います。
干からびたネタのお寿司には、誰も手を伸ばすことはありませんが、ショーケースのサンプルを見ればつばきを飲み込むかもしれません。
短歌が目指すべきなのはこの方向だと思うのです。
・ 狙いならきっと話が合うだろう短歌はまるで食品サンプル
創作であっても、心に何かを描かせる。職人は自分の断面(切り口)を持っている。
2020年9月16日
短歌 ミルク