中学生になった頃には、角川を初めとする文庫各社に大きな勢いがあった記憶があります。
タイアップで大きく宣伝される原作本のポップや帯に、見知らぬ作家や多様な著述がモザイクタイルのように踊っていた時代でした。出版はこの後黄金時代を迎える勢いそのままに、至る所に書店が出来たことが思い出されます。
一人の時間には必ず何か本を読んでいた私が、当時気になって読んでいた本があります。
これもベストセラーになったと記憶していますが、高野悦子さんの「二十歳の原点」というものです。二十歳で亡くなった、学生運動に身を投じた学生の日記が主な内容となっていますが、後に「二十歳の原点序章」、「二十歳の原点ノート」と中学二年生まで遡れる一人の人生模様の三部作となっていました。ドキュメンタリーと言うには少し語弊があるような、少女の心の中をのぞき見るような罪悪感と、他者と自己との境界がどう形成されて、どう崩れてゆくのか、そんな心のスクラップアンドビルドとでも言える激しい経験が綴られていて、「ここまでこの人に影響するものの正体は何なのだ」と、幼いながらも眠れなかった夜もあった程、深く考えさせられました。
更に興味深いのはこの本の中に奥浩平さんの「青春の墓標」が、そしてその「青春の墓標」の中に樺美智子さんの「人しれず微笑まん」が出てくることでした。同じような思想に惹かれた同世代の三人であったと思いますが、数奇な運命により若くして命を落とすことになってしまった若者の心の内を推し量るということが、凡庸な中学生にはとても刃が立たないことだと解っていても止められなかったくらい、興味深く自分に迫るものがありました。
団塊の世代からは少し離れている私にとっては、学生運動もTVニュースの中の世界でしかありませんでしたが、オセロのように黒を白にする希望を持ち、人間の心の美しさを信じて戦っていた学生の姿は、渡来侵略してきた文明人に抗う原住民のように儚く映ったものです。同学年では全く会話に出ることのない「ノンポリ」なる言葉も、これらの本で知りました。ノンポリシー、なるほど、言い得て妙です。まさに今の日本、日本人そのものです。実際に社会の殆どを埋め尽くし、動かしているのはこれらノンポリの人々です。
そんな普通の真面目さがある程度の繁栄と高度な教育や医療のレベルを維持してきたことは否定しません。すべてが右肩あがりであれば、そのままでうまくいったのでしょう。
ノンポリは数や力任せを野放しにして、格差を広げ、強い物はより強く、弱い物は更に地を舐めるような社会を形成してきました。汚れた池はそのままに、誰も水を入れて薄めようともしない、意味の無い低さの投票率がそれを示しています。黒を白にすることは不可能だと諦めてしまって、もう立ち向かうことがバカらしいとさえいう人達ばかりです。
真っ白にすることが不可能でも、限りなく白に近いグレーを目指すことが、本来政治や思想に科せられた役割だと思いますが、白にならないのだから仕方ないと匙を投げているに等しい体たらくと言えるでしょう。ノンポリは花にも実にもならない種を撒いてきただけに過ぎません。自分達がこの国を動かしてきたなんて、誤算もいいところです。
かといって、極左や極右といった向きを持てということでも、何かの宗教を信心しろということでもありません。抗い方を考えろというふうに強く思います。後出しジャンケンで常勝する相手にも、グー、チョキ、パーの3つ出せれば負けることはありません。3つを出すという思考を持たなければ、いつまで経ってもマニュアル通りに負け続け、カモにされ続けるだけです。それでも出る杭を嫌がり、搾取され続ける「安定」を望むのなら、その人は一生ノンポリでいいのかも知れません。
長々と書きましたが、これは短歌界への皮肉を滲ませたかったに過ぎません。
豪華客船で太洋に出ている気分かもしれませんが、海はどんどん干上がっていて、いつか船が航行できない所まで行き着くかもしれません。ノンポリの生き様など、誰も読みたくはありませんし、そんな船や航海に興味は持たないでしょう。
意志をもって自ら漕ぎ出す人が求められているのだと思います。
・ 違うこと尊重しろと教えられ集団に帰す 影だけのひと
弱い方にはいたくない、少ない方には入りたくない、逃げ惑うのみの君は愚かだ。
2020年9月24日
短歌 ミルク