短歌に用いられる頻度がとても高くて、安易に使ってしまいがちですが、実は最も気を付けなければならない表現があります。
「~ような」とか「何」という表現です。
一般的な比喩表現や、対象が明確に定義できない、もやもやしたものを表す際に用いられることが多いと思います。あまり深いことを考えないで使っている人がほとんどだと思われますが、「~ような」がクセ付いてしまうといずれ「ヤバい」と同じように、何でもかんでもに使ってしまうようになります。「ヤバい」(いとおかし)は、最も創造性(想像性)を欠いた表現です。思考に衝立を立ててあっという間に情景を狭くしてしまい、歌は陳腐なものに成り下がってしまいます。「~ような」では、元の対象物(対象となる現象)のような今の対象物(現象)という使い方だと思いますが、元となるものがまるでわからないまま次を説明されてしまうという、滑稽な使われ方をすることが多くあるからです。
「○○のような」の○○は明確に定義できるものでなければなりませんし、”虹のような七色”などとあまりに当たり前過ぎてもいけません。
また、「何」と同様に「あの」という指示語についても何も考えずに雰囲気で使われている歌を多く目にします。
あの時のような 「あの」がどの時かわからない
あの日のような 「あの」がどの日なのかわからない
あの場所のような 「あの」がどの場所かわからない
誰かのような 「誰か」が誰なのかわからない
歌謡曲の歌詞にも出てきそうな表現ですが、歌詞のように長ければ十分対象は説明できるものの、短歌の制約の中ではとてもその詳細にまで迫ることはできないでしょう。
ごく希に成功している例もありますが、殆どの短歌は失敗に終わっています。
「何」、「何か」、「何を」、「何の」、という指示に使われる言葉ですが、大抵は形のないもの、もやもやとしたものや、空気感や心象や感情を表す際に使われていると思います。先の「あの」や「ような」とは少し異なるものが想定されているのだと思いますが、
そのままではとても曖昧すぎて、詠もうとする事象の断面に全くピントが合いません。
私はいつも「何」を引っ張り出したとき、その前に「どのような」「どんな」という疑問を問いかけるようにしています。「どのような+何」と問われると、もう答えには曖昧な何かを持ってくる余裕がなくなって、ぎゅーっと絞り込んだ対象でなければ「何」が使えないことに気付けるからです。
いずれにしても、歌意を曖昧なまま泳がせることをよしとする、インスタントな作り方がもたらした現代短歌の弊害だと思います。作者が明確にイメージできないものを読者が明確にイメージできる訳がありません。
安易に「~ような」を用いる作歌、しっかりと考察せずに「何」に委ねてしまう作歌、それは戒めなければなりません。
事象の断面は美しくある必要はありません。美しければそれに越したことはありませんが、スパーンと心にイメージできなければ、その先へ思考は及びません。
まずしっかりと断面をイメージできること、すべてはそこからスタートしなければならないと思っています。
・ 鳴き声は二分四分八分十六分 季節の音符を刻んですすむ
春、夏、秋と速まった演奏は終に止む。沈黙の季節とは冬のこと。
2020年9月5日
短歌 ミルク