季語や季節感に大きく縛られる俳句の世界では、初心者に限らず季語から作り始めるケースが多く見られます。最初に季語ありきで言葉や情景が選ばれてゆくことが、一つの流れなのかもしれません。少ない語数の中では、良くも悪くもこの季語に引っ張られることから逃れられません。必然的に皆の使用する季語が重なったり、頻出してしまうことで、一層早く陳腐化してしまうことも避けられません。
春ならば「風光る」、夏ならば「風薫る」、秋ならば「星月夜」、冬ならば「冬銀河」などという季語表現は、もう使い倒されてボロボロだと言ってもよいでしょう。
(新しい季語表現が生まれにくい)ということは、短歌にも増して俳句の抱える大きな課題であると思います。しかしながらわずか十七音の中では自ずと限界もあります。短歌と同様に、自由律で季語無しというリミッターを解除した形での発展も可能だと思いますが、それには大きな価値基準の改定が伴うでしょう。短歌同様に、こちらもモドキを徹底的に区別しなければなりませんが、違いがわかる賢者があまりにも少ない現状では、ほぼ不可能と言ってもよいかもしれません。
幸いに短歌は「季語」という鎖に縛られていませんので、自由な形へのアプローチがし易いという点では恵まれています。
実際には真夏に凍えるような想いをしたり、真冬に熱中症になることもあり得るわけで、大切なのは季節やひと月というジャンルにきっちりと分けてしまうことではなくて、詠わずとも季節感が漏れ出すような歌作りをすることだと思います。
また俳句は句題からの逸脱が大きすぎると思っています。それは制約がもたらした逃げだとも思います。到底許されない世界まで解釈を拡げて、それも「題」の世界と言い張る様子は断末魔にしか聞こえません。短歌もそうですが、漢字一文字などという「お題」は早々に止めたほうがよいと思います。もっと題材を絞り込んでフォーカスをきちんと合わせてゆく方向で作らなければ、いつまでたっても上手くは作れないと思います。
短歌に至っては、歌から逆に「お題」が想起できるくらいでなければ、歌としては失格だと考えています。季語や季語表現が意図した季節感や四季のあることの素晴らしさは立派なものですが、このままゆけば、野菜や花きの旬や季語は変わってしまうかもしれません。
それほど通年にわたり目にするものが増えてきています。絵に描いたように四季がスパッと別れればそれはそれで理想なのでしょうが、あまりにそのことに囚われていては、肌感覚で季節を感じることが疎かになってしまいます。
短歌も俳句も、今後はよりリアリティの強い方向へ動いてゆくと考えられます。
そうしなければAIは学習できないからです。
ですから頭の中だけで勝手に描いたファンタジー俳句やファンタジー短歌は自然に淘汰されてゆくでしょう。自分にしか解らないことはAIも他人も理解できません。
短歌はきっと新しい季語のような表現をどんどん生み出してゆくでしょう。
そのためには言葉との対話がとても重要です。滲み出した歌の色で余白が塗りつぶされるほどの表現を求めなければなりません。
歌集の大きな余白とは、暗にそれを要求しているものだと考えています。
・ 結晶は水へと還る水色の甘さもさらう夕立がくる
溶けることは宿命だけれど運命じゃない。抗ってこそ成り立つかたち。
2020年9月3日
短歌 ミルク