古今和歌集と新古今和歌集を読んだ後の落胆は想像以上でした。それはまるで白地図のように殺風景で、異質な世界観に包まれた張りぼての歌ばかりで、もうおとぎ話の中の出来事でよいのではないかと思えるほど、浮き世離れしたものでした。いくら雅の反対語が俗だからといって、雅な世界ばかりを夢見たとしても、実際に自分達が吸って吐いているのは俗の空気そのものであるのに、そこからは逃げてばかりの心情が垣間見えました。鳥かごの中の飛べない綺麗な鳥とでも言いたいのでしょうが、鳥かごの中から見る限り、どれもこれも同じ視点、同じ心情、同じ景色にしかならないのは誰にも解ることです。新たな経験こそが、新たな発見や感情を生むもので、いつまでも~たら、~ればと乞い願う歌の多さにも辟易しています。圧倒的な実体験の無さ、語彙と視線移動の少なさ、乏しい感覚、これを雅と呼ぶのならば、あまりに稚拙で幼稚です。
千年もほころびないと書かれた本もありましたが、綻びないはずでしょう。絵に描いた餅なのですから。自分たちがどれほど素晴らしいのか知りませんが、人の意にうまく寄り添うような景色だけを詠んで、さも世の中の美しいものすべてを詠んだかのような勘違いも甚だしいと思いました。口にする食べ物を誰が作っているのか、着物の糸を誰が紡いでいるのか、雨や風はどうして一様ではないのか、そんな事が気にもならない感覚の乏しさはもはや致命的で、読んでいるこちらの方が逆に憐れみを覚えるくらいです。
雅の名のものとに、あらかじめ決まった言葉しか使わず、決まった景色しか詠わず、和色にあれだけの色の名を持つ国であることを疑ってしまうほど、お粗末に思えて仕方ありません。果たして生身の人間が作歌しているのだろうかと疑いたくなるような臨場感や空気感の無さに、今を生きているという息吹を感じることはできませんでした。私も危うくこの「平安バイアス」に騙されるところでしたが、古今と新古今というものは、ひな壇に飾られた命のない操り人形の目線で詠んだ歌と前置きをしてから、読むことにしています。
手折らばと詠めど手折らず触れもせず眺むるばかり何も及ばず
うぬぼれはいつも大切なものを見失う、これはもう平安中二病。
2019年6月27日
短歌 ミルク