少しだけ短歌をきっかけにお知り合いになった過去の恩師や先輩や、俳句などを嗜まれている知人に良く聞かれることがあります。
「君はダメだと言うけれどいったいこの短歌のどこがダメなのか?」とか、
「あんまり好きじゃないというその理由は何なのか?」という質問です。
個人の主観的な見方ですからと前置きをしても、いつも食いついてきて中々返答に困ることがあります。
最近はよく例え話のように崩して説明するのですが、それでもすんなりとは解らないようで、「難しいなぁ」と首をひねられてしまうことばかり。何とかうまい説明はできないものかといつも苦労しています。
→ここからはその例え話です。
それぞれの人が自分の中に、心の景色が移る壺を持っているとします。
この壺は特殊な壺で自分自身はその中身を見ることができるのですが、自分以外の人からはその中身を見ることができません。(想像することしかできません)
心の景色とは、その壺の持ち主自身の目で見た、あるいは感じた景色ですから、本来他の人からは覗けないものなのですが、短歌という特別な訓練を経た人だけが、特殊な見方をできるようになるのだと思っています。特殊な見方というのは、自分の外からも壺の中の景色が見えるようになるということです。(透明な壺になる)
A・自分の壺の中の景色を自分の目で見て詠う。
これはごく一般的な短歌の作り方でしょう。
B・自分の壺の中の景色を自分の目で見ている人を外から見て詠う。
このようにならない限り、短歌にはならないと思っています。
私がダメだ、良くないと感じる殆どの短歌は、Aのように作られて詠われています。
少し落差は少なくてわかり辛いかもしれませんが、四句のみ変えています。
A・汗をかく弁当箱の梅干しを 喉が欲しがる 炎天下にて
B・汗をかく弁当箱の梅干しを まず放り込む 炎天下にて
わずか七音だけですが、Aは自分に向けてぐっと近寄ってしまっています。
Bのように自分のことでありながらワンクッションを入れて、絵が浮かぶような動きが詠われると大きく景色の幅が広がり、豊かさが増してくると思います。
歌は何度でも修正できます。作り直せることが最大の強みでもあります。
何度も咀嚼して何度も噛み砕く。
ただたくさん作るだけでは決して上達はしないもの、俳句や短歌はそんなものだと思っています。
2020年9月2日
短歌 ミルク