俳句の世界も言葉を追求することに違いはありませんが、やはり字数の制約は大きくて、不足しがちな説明や曖昧な解釈に「ここのピントを絞りたい」という欲求がはみ出してくることを抑えられません。また、句によっては大きく解釈が異なる感想が生まれがちな所も引っかかります。短歌もそうですが、多数決なのか、同調なのか、はたまた鶴の一声なのか、それはセンスが良いのか、感性が素晴らしいのか、技が巧みなのか、誰の何という基準なのか、このあたりがすっきりしない原因なのかもしれません。
TV番組の中の添削や辛辣な指摘が人気でもありますが、まるで主宰の中に「俳句」というジャンルが入り込んでしまったようで、人というものは油断をすればあっという間に作品に取り憑いてしまうのだと、残念な気持ちにもなります。
もっともっと別の角度、別の視点、別の解釈があるはずなのに、削ぎ落とす過程を無視するかのように独断で評してしまうことには、些かの乱暴さも感じています。
即席で生まれていない俳句や短歌には、少なくとも半日程度の咀嚼する時間が必要だと思っています。
残念ながら多くの俳人や歌人が言葉を削ぎ落とすことに必死になっている中で、私は言葉よりも先に心が削ぎ落とされていないと、言葉が引っ張り出せないのではないかとも思い始めました。深い苦しみや哀しみに見舞われた先人の言葉は、それ程までに強烈なものでした。美しい言葉は、やはり美しい心の先にあると確信しました。
上辺だけの頭で考える言葉には越えられない、心の深い谷を越えてゆかなければ、心が出会った言葉に巡り会えないことを知ることができました。
八月は塔和子さんの詩集と共に過ごしました。
少ない言葉、短い詩の中に生きている美しい魂を感じることができました。
しかしながらそれと引き替えに、おぞましいほどの苦しみを味わってこられたことが
俄かに信じられない程の清らな輝きでした。
九月はもう一度、住宅顕信さんを読もうと思います。
「ずぶぬれて犬ころ」は私の一番好きな俳句であり、削ぎ落とした美学の結晶です。
この自由律俳句は僅か9音しかありませんが、意味することの深さは果てがありません。
そして季語すらありません。
なのにこの短い一句はずっと私を捉えて離しません。まるで言葉が私を心の深い谷へと誘っているかのように、読み解くことを問いかけ続けています。
一体どのような心がこの言葉を選んだのか、それを知りたいという衝動を保ち続けているのです。
短歌と自分の関係や言葉の探求は始まったばかりでまだまだですが、塔和子さんや島秋人さん、住宅顕信さんは北極星のように微動だにせず私の目指す先で輝いています。
このような言葉と出会えたことを、とても幸せに感じています。
「ずぶぬれて犬ころ」
住宅顕信 1961年3月21日~1987年2月7日 享年25
人はなぜ「犬ころ」と呼ぶ。人の心のどの場所で「犬」は「犬ころ」になるのだろうか。
2020年8月25日
短歌 ミルク