砂鉄のように同調し腐りかけの歌壇に集まっていく歌人たちを見ていると、歌もそうですが自分自身が陳腐化していることに気付いていないのだろうと思います。
最近では動画サイトなどでも短歌関連の投稿などもあるようですし、歌集を題材とした映画なども作られて、映像を伴って短歌に接するいうことが増えてきました。しかしながらなぜ映像まで使って短歌の世界を引き延ばさなければならないのか、その意図が不明確に思えて仕方ありません。単に流行廃りに乗っかっているだけなのではないのかと端からは見えてしまいます。
そもそも「訴えたいこと」を読者に放り投げてしまっている歌の何を映像で補うというのでしょうか。八方美人を気取って「読み」を読者に委ねた歌に「あらすじ」や「脚本」などが存在するのでしょうか、「なんとなく」「そんな感じ」などという共通認識などでは、鮮明な断面は浮かび上がらないものです。映像が短歌を補完する理由があるとすれば、短歌断面の生成プロセスや周辺環境にしか見いだせないような気がします。けれども起こる事象を次々に見せたとしても、それが綺麗に一首の短歌に収束するかと問われれば、そのようなことではないと言わざるを得ません。
劣化することと陳腐化することは根本的に違いますが、現代短歌をとりまく歌人達はその両方を同時に進めてしまうほど言葉の感覚に疎く乏しいのかもしれません。
心の痛点が各自異なるように何をもって喜怒哀楽がそれぞれに響くのか、それから逃げてしまっていては、いつまで経っても獲物を捕らえることはできません。
道具があるからといって散弾銃をぶっ放して片っ端から鳥を撃ち落とそうとしているのが、現代歌壇の抱える病であることに気付いているのでしょうか。
歌人と呼ばれる人であるのならば、一対の弓と矢をもって渾身の射を放つべきだと思っています。そこに「私性」とか、自分らしさなどというものは必要ではなく、一点の痛点に向けて如何に心を整え、射貫くことに集中できるのか、その心持ちが問われているのです。
ただ放たれてかすりもしなかった矢や鉛の弾(言葉)がそこら中に撒き散らされて朽ちていきます。
正式な競技や大会でもないのにこんなことがいつまでも続くようでは、短歌も一度滅びてみたほうが良いのかもしれません。
・ 傷みなく剥がれることもあるだろう かさぶたにでも潜む痛点
目も、手も、あるいは足も人の4倍ある蜘蛛はとてつもない悟りに気付いているだろう。だから巣は時に見事な美しさを放つ。
2021年6月16日
短歌 ミルク
1. 無題
今日もすごく納得してから、「あれ?」って思いました。
(ポイントはここではないのですが)蜘蛛は目は8個、手足も8本ですよね。「手足は人の倍、目に至っては人の4倍ある蜘蛛はとてつもない‥‥」となるべき?
もしもなんか私の認識が違ったらすみません。