短歌と短歌モドキの境目は案外はっきりしていて、水面の波紋に例えると解りやすいと思います。
短歌は波紋の行方や波紋の因果関係のような、波そのものに焦点をあてて詠っているのに対し、短歌モドキは波紋どころか、全く波の立たない鏡のような水面に映った自分の姿ばかりを詠っているということです。
波を見ている人と、自分の姿を見ている人の違いがそのまま作歌や選歌や評に現れるので、伝わらない人へは全く伝わらないということが頻繁に起こります。
しかし伝わらない事に囚われたり、一喜一憂することは馬鹿げています。
私は酒乱の父親との経験で、「人は自分の意志でのみ変わることができる」ことを確信しておりますので、伝わらない人へわざわざ伝わるように自分があれやこれや考えを巡らせることは単なる時間の無駄だと思っています。伝わらないことは仕方ないことと言い聞かせて、更なる自分の高みを目指すことが望ましいと感じます。これを諦めと単純に見下す人もいらっしゃるでしょうが、平行線が寂しいからといって自分からレールを曲げる必要はありません。自分の信じる道を真っ直ぐ突き抜ければよいと思います。
人は個別の人格を持った時点で他人です。
血のつながりや遺伝子の繋がりがあったとしても、誰も自分以外を100%理解することなどできません。へその緒で繋がっていても、心臓は別々に二つあるのです。
あくまで例えでしかありませんが、多くの女性は出産という経験でこのことを勘違いし始めます。
自分が産んだ、自分から産み出した、自分の体の一部であったという体験が、血の繋がった子供ですら別の人格であるということを否定し始めます。
成長し、小舟を漕いで旅立ってゆく子供や波の行方が見えずに、水面に映る子供を送り出した自分の姿ばかりを見ているのです。
こうして短歌は自分の姿に張り付いた、醜い短歌モドキになっていくのだと思います。
静かな自分の心の水面に石が投げ込まれたら、確かに衝撃を感じるでしょう。
しかし、その場面ばかりを切り取っていては全く成長のないただの感動症候群になってしまうだけです。そうなってしまえば、ゴミでも何でも放り込まれたものを詠わずにはいられなくなってしまいます。これが今の短歌を巡る多くの人達が陥っている沼なのでしょう。
自分のことを詠ってはいけないということではありません。
自分のことを詠うときに、一体どこを見ながら詠うのかという視点の問題です。
このことが理解できなければ、短歌モドキから抜け出すことはできないでしょう。
周りがこのような状況だからこそ、短歌が徐々に自分から離れていってしまっていることに気付ける心でありたいものです。
2020年12月22日
短歌 ミルク