相変わらず、読めない歌人の解説は薄っぺらくつまらないままで、歌そのものから「あーあ」という溜め息が聞こえてきそうな感じさえしてしまいます。
歌は真に歌の本質に辿り着き、そのど真ん中へ入ってきた人にしか解釈の扉を開かないものです。多様な解釈など、まぼろしに過ぎません。
これは作者が真剣に歌と向き合って費やしたエネルギーが、歌の意味をより尖鋭で明確なものに集約しようとしているからに他なりません。
短詩という形式に制約があるからといって、その先の解釈をユルユルなものにしてしまったら元も子もありません。
多くの歌人は解釈を諦めて、「多様」という名の免罪符を得た気持ちで勝手に語っているのかもしれませんが、「私性」などという旗を掲げて元来「私感」や「私情」にべったりと張り付いた作歌をしている本人がどうして「多様」などという価値を簡単に語れるのでしょうか。「多様」となった一つ一つの個性も元はすべてが「ファーストペンギン」たる決意を胸に挑戦したものの集まりであるというのに、何の決意も挑戦も持たないものが簡単に「多様」などと口にするものではないと思うのです。
慣れれば誰でも一瞬で判別できると思いますが、「私」が前面に出た歌とそうではない歌は一目瞭然です。同様に読み解きに関しても「私」が前面に出た読み解きとどうではない読み解きも一目瞭然なのです。
この事はいずれ短歌を分ける大きな分水嶺になると感じています。
古来より続く「私」にこびり付いた身勝手な作歌を続けるのか、真に言葉と歌の指し示す大きな世界を詠うのか、短歌によって試されているのです。
歌意は北極星のように微動だにしません。
言葉は選ばれ練られて、心情や叙情の行く先を曇り無く照らしているのです。
それこそが美しい歌となり得るものでしょう。
まるでギャンブルの予想屋のような身勝手な解釈は蹴散らされるでしょう。
多くの歌人が覚悟しなければならない明日がすぐそこに迫っています。
2020年12月27日
短歌 ミルク