そろそろ炎上騒ぎも落ち着いてきた感のある、とある番組でのイタリアンシェフのコンビニのツナマヨおにぎりに対する「見た目が食べたいという気にならない」という理由での試食拒否騒動、たまたま私もリアルに視聴していました。テレビの演出なのか、本心なのかははっきりしませんが、一視聴者としてはお正月の最中から気分が悪くなったことは言うまでもありません。
ただ海苔のついた炊き込みのおにぎりの見た目が、未知のエイリアンのようにでも見えたのでしょうか。対象がおにぎりだったからこの程度の炎上で済んだものの、もしも対象が人間だったらきっと社会的に抹殺されかねない事態に及んだでしょう。
過剰な演出上の・・とか、一流シェフなりの流儀・・・とか、シェフを擁護する意見まで出る始末で、いかに社会が多様性という毒に侵されているかがよく見て取れる現象でした。
「見えていること」が普通だと思い込み、「見えている物」がすべて美しくなければならないなどという馬鹿な判断をする人間が増えているのでしょう。このシェフ、自分自身で「鬼才」などと言ってしまうあたり、器の小ささが見て取れます。
人はあらためて「見えていること」の不完全さに気付く時に来ていますし、その不完全さを他の感覚器でどう補えばよいのかを真剣に考えなければなりません。
同番組では時折シェフ達が目を閉じて噛みしめるように商品を吟味している映像が映し出されます。味なのだから目を閉じる必要はないはずですが、それでもほんの少しの視覚情報が味覚をかき乱すことを知っているから、敢えて目を閉じているのだと思います。これは一流料理人であればこその行動だと思いますから、いつも感心して見ていました。
そんな中での騒動だったので、余計に腹立たしく感じました。
見た目だけで一体味の何がわかるというのでしょうか? もしかしてこのシェフにだけそんな超能力でもあるというのでしょうか。
コンビニの陳列商品だから、見た目ももちろん大切なことは十分わかります。おにぎりだから具材は見えないけれど、サンドイッチでもなければシュークリームでもない、誰がどう見てもおにぎりにしか見えないのであれば、それは必要十分であると許容しなければならないと思います。
このシェフも、そして大勢の現代人も、現代短歌界の中の人々も、往々にして見た目に左右されて、重要な情報を取得する能力が著しく欠如していると言わざるを得ません。
それは「旧かな」だから「趣がある」と条件反射のように解釈してしまうことと何ら変わりないことだと思います。
目で見て、声に出し、目を閉じて頭で繰り返し、文字を指でなぞって確かめる。
料理にも短歌にも通ずることが疎かにされていることに対し、心穏やかではいられない年の初めとなりました。
このブログにも以前に書きましたが、
・盲学校の女子生徒が授業で触った蚕の幼虫をなぜ「持って帰りたい」と言ったのか?
・パラアスリートの木村敬一選手が表彰台の上で「君が代」を聞いてなぜ涙があふれたのか?
普通に見えている私たちは滝に打たれるつもりで考えなければなりません。
そうしなければ、真に言葉の指し示す景色には辿り付けないと思います。
・ 触らずに見えているから見失い溺れて沈む普通の闇に
普通という余りにも曖昧で定まらない尺度。動物として体が感じることのできるすべてが情報のはずなのに、まるでスマートフォンの中だけが全世界と思っている愚かな若者のような感じ方しか出来ない大人では、すべての真理や真実には辿り付けないだろう。
2022年1月28日
短歌 ミルク