紛れもなく歌壇の中心で強い影響力を及ぼしていると思われる重鎮とされる人達の本も、一応は目を通しておかなければと始めた(歌集を読んで)のシリーズですが、そもそも嫌いな歌人の歌は読むなと言っている私にとって、とてもつまらない時間ばかりになりそうな予感でいっぱいです。嫌いだと言いつつも何とか良い面、良い歌はないものかと必死になって読んでみてはいるのですが、集中を維持することが困難なほどお粗末で滑稽です。
一体どのような確証が歌人にここまでの勘違いをさせるものなのでしょうか。もはやそのような人のありようの方に興味が湧いてきました。
馬場あき子さんの第十八歌集とあります。砂子屋書房さんの飛天の道という歌集です。
「飛天」。もうすでに病の影が出てしまっています。
3000円(税別)もします。(!)でも製本すらきちんと行なわれていません。見開くと中央に小さな識別用の文字やマーカーがチラチラ出てくる始末。まぁ、内容の事ではありませんから歌人の責任ではないのかもしれません。
難しい読みの漢字や熟語が結構出てきます。時折ふりがながふられているものもありますが、あったりなかったりで読み辛いです。(難しい言葉や当用漢字以外を使うことについては完全な自己満足だと私は断罪します) 当初の想像通りの古典至上主義な幽玄賛美ともとれる曖昧な自然詠みや自分の見た日常、世間の様子、ただの風景が続きます。表題にもあった飛天の道のネタと思われる砂漠の町への旅行記のような歌もあります。1ページに2首がゆったりと書かれているのですが、余白の多さよりも印象の薄さの方が気になります。
私のような凡人には伺い知ることのできない達人の境地なのでしょうか。(笑)
全体を読み終えてから、趣味の自費出版レベルだということがはっきりしました。※それにしては高価。
決定的なのはリアリティ(現実味や真実味)が圧倒的に感じられないことでしょう。
身体という心の入れ物は世界を旅しているのかもしれませんが、心は自分にしがみついたままですべてを見下ろそうとして詠っているかのようです。自分で自分のことを賢いと思っている人は必ず文章や作品にそれが反映されますから、当然と言えば当然なのかもしれません。頭で作っている短歌というものは、余程考えて作らなければすぐに見破られてしまいます。もしもすべてが実体験ということであれば、それはそれでこの程度のリアリティでしか表現できないことの方が問題です。恵まれない環境の辛さや辛酸を舐める苦しさをリアルに味わった人ならば、この歌集のような歌い方は絶対にしないでしょう。この作者のリアリティはせいぜい小さな虫を手で潰したという所までで、殆どの歌は傍観の視点で作られています。故にリアリティがないのです。ご自身がどんなにお偉い方なのか解りませんが、常に高座の上から「詠みますわよ」という印象が強いです。まるで現場の事を何一つ解ろうとしない中央の官僚か、ぼんくら政治家という佇まいです。
いくつか引いてみましょう。あーーーー旧かな、イライラする!!!
(飛天の道 馬場あき子 砂子屋書房 より)
自分大好き日記(だって歌人なんだもん)
・ 青虫に突起のような足ありて大きらひなれどうねりて歩む
・ 桃太郎と金太郎と勝負することなしされどああ少し金太郎好き
・ 蟻を見るわれの眼いかに大きからん天の眼のごとゆくへみてゐる
・ 料理学校出たのに料理ぎらひにて包丁を研ぐことだけが好き
・ 歩く影ひとひとりごと聞かせたりわれはかぐはしきもの少し捨つ
頭で作って意味不明(リアリティ・ゼロ)
・ 虫の恨みたくさん負っているやうな手に水飲めば虫の匂ひす
・ 植物的思考の中に植物のやうなわれゐて今日キャベツ捥ぐ
・ 遠眼鏡で見れども見れども夜の闇見えぬ深さで日本をつつむ
落差偏重、落差演出(大げさ!JAROに電話しちゃうかも)
・ 寒水を飲む目つむれば刑前のごとし静かな枯野うごかず
・ 中世の遊女の素手のやさしさでするりするりと筍を剥ぐ
・ 胡蝶蘭とどきて何か馥郁と終焉のごとき安らぎ生まる
自分は豊かだとの勘違い(愛がないんだよ、愛が)
・ 髪薄くなりてさびしき人ばかり今日終電に眠りていたり
・ 顔より大きなパンに噛みつく小さな口われと哀れむ敦煌自由市
・ 暖冬の駅にかすかな鳩の香あり段ボールの家に人ら午睡す
・ ぼろ市に雛立てりとぞいくさ世の兵隊びなのあはれ立つとぞ
石榴ざくろザクロ(石榴と蟻と蛇の非日常的落差が好き)
・ 横須賀に空母ゐる日の快晴の天に避けたる石榴見上ぐる
・ 葉陰なればうれしげにしも太りゆく石榴の唇をとんぼ吸ひけり
・ みかんの臍ざくろの唇くだものの中心にしてひといろちがふ
・ おちょぼ口してゐる石榴みしみしと太って割れて明日は天気
古典至上主義(ふらここってもう死語でいい)
・ ふらここが空より風を引きおろしああコスモスが満開になる
何か見せしめにしているかのように思われるかもしれませんが、全編にわたってこのような調子が続きます。これで十八作目だとすると、もはや軌道修正は不可能でしょう。
なぜこんなにもライブ感やシズル感、臨場感のない平坦な絵のような歌ばかりになってしまっているのか、それは「汗」に代表される極めて生物的な言葉や、「犬」や「猫」といった現代では極めて当たり前に生活の中で出くわす動物が全く登場しないことに象徴されているのではないでしょうか。つまりは自分の見たいものしか眼中にない、そもそも万華鏡の外側など覗くつもりがないということに他なりません。実感などたいして重要だとは思っていないのでしょう。
本人は枯れるということがある種の重みを伴っているかのような勘違いをしていますが、心まで枯れてしまってはただの装飾木です。歳をとっても心が折れれば痛みもあるし声もあげるでしょう。きゅんとすることもあれば締め付けられるような憧れに踊ることもあります。そんな魂の躍動感を伝えることも歌人の役割だと思いますが、もう、このおばあさまには無理なのかなぁーというのが、正直な感想です。
背伸びをせずには居られない、それは女性特有の性なのかもしれませんが、その感情を制御した先に粋や品が生まれることは十分理解していらっしゃるでしょう。
それでもついに自己愛からは抜け出せなかった。
褒めるだけでは伸びない人もいることを歌壇は学ばなければならないでしょう。
唯一良かった歌(表現はここまでで十分、これ以上は不粋)
・ ふとん干す春の陽射しにかすかなる塵ひかりつつはなれゆきたり
いずれにしても彼女が言葉に選ばれなかったことだけは確かな事のようです。
2021年7月13日
短歌 ミルク