人は後悔をしながら生きてゆく特徴的な生き物です。
悔いる心がある反面に潔い心もあって、バランスを取りながら生きているのだと思います。
心が穏やかでいるためには、どのような心持ちでいなければならないのでしょうか。
吹き出すように歌が思い浮かび、もう投稿せずにはいられない。誰しも一度はそんな想いに操られたことがあるでしょう。そうかと思えば、もうどこをどんなに掘り返しても、一つの歌も浮かんでこないこともあります。
その単純なフォーマットとは裏腹に、短歌の世界は非常に荒々しく、生々しさや痛みを伴う空間のような気がしています。馴れ合いで関わっているうちはその本性の一部しか垣間見えませんが、いざ本気で挑もうとすると突然牙を剝いて襲いかかってきます。
私には、「中途半端な気持ちで来るなら容赦なく排除する」という風に聞こえて仕方ないのです。
それは勉強するとかしないとか、技巧や様式がどうとか、そういった表面上のことではなく、如何に素直で真っ直ぐな気持ち(心持ち)で短歌の作成に取り組めるかということを、問うているようにも聞こえます。
真っ直ぐで素直な気持ちとは一体どのような状態かと考えた時、私は左右のバランスが取れた天秤を思い浮かべることにしています。
水平でフラットな状態、針が0を指した状態で心を留め置いた上で、作歌に望めるならばそれはとても安定した見方のできる心の在りようだということができると思います。
天秤の左右には、たとえば(失くしたもの)と(今あるもの)を載せることが考えられますが、私たちは往々にして(失くしたもの)ばかりを天秤に載せすぎるような気がします。
傷病辛苦や老いの歌、自分語りといった自らに強く纏わり付く事象を、あまりにも安易に(失くしたもの)と紐付けてしまい載せてしまう。当然天秤は大きく傾いて、心は極めて不安定な状態に置かれます。自らがそう思い込めば、人は盲信するかのようにどんどん不幸と思しき事柄を載せ続けます。短歌においても、勢いに任せて思いつけば投稿するということを繰り返していれば、この状態にすぐに陥ります。そして天秤が振り切れて動かなくなった時、それは短歌が浮かばなくなるという事だと思います。
日常の小さな出来事、機微に気付くには天秤の目盛りは限りなく0に近くなければなりません。水平でいるからこそ、どちらかに少し振れたことが判別できるのです。
それは此処の境遇や貧富や立場やそんなもので左右されるものではありません。
自分の心の中で、左右の皿の重さに折り合いを付けて平衡を保つように生活することができて初めて水平が保たれるのだと思います。
とても厳しい境遇にあったとしても、失くしたものに釣り合うべく、今あるものに眼を向けて少しずつ皿にのせてゆく努力を行ってこそ、心の天秤の水平は保たれるのだと思います。同様に、恵まれすぎた環境にある人も、失っているものはないのだろうかという問いかけを忘れてはならないのだと思います。
恵まれすぎても、失い過ぎても、バランスは大きく狂ってしまいます。
大きく傾けばもう互いは見えないし、少しの不幸や少しの幸せを感じたとしても、ピクリとも天秤は動かないでしょう。すべてに鈍感になった心持ちになってしまっては、見えるものも見えなくなってしまいます。
現在、短歌に関わっている人達はとても恵まれた境遇の方が多いと感じています。
そんな中で、逆境や苦難や迷走の中にある人達にこそ、歌や言葉の深い味わいを表現して欲しいと思っています。その為には、むやみやたらに吐き出すのではなく、一つ一つ起こったラッキーを愚直に積み上げていって欲しいと思います。そしていつかバランスがとれて平衡になった時、何気ない日常の中にあった幸福に目を向けて欲しいと思います。
決して誰かのせいにするのではなく、自分の天秤は自分が平らにしなければなりません。
短歌はきっとそのためにあるような気がしています。
・ バランスが取れているから安堵する失くしたものと今あるものの
欲深いことは限りなく天秤を斜めに倒す。もう見えないほどに失くしたものが積み上がってゆく。
2020年3月31日
短歌 ミルク