慣れというものは恐ろしいもので、感覚というセンサーをいとも簡単に厳しくしたり甘くしたりすることができます。
概ね「ここぞ」という一点に技術や制御のフォーカスを絞り込むような用途ではすこぶる繊細になり、無意識に意味も無く繰り返すだけの作業では緩められ粗くなるような気がします。「体が覚える」と言えば何か無意識に行っているように思いますが、根底に目的への強い意識を持った上での「覚える」と、本当にぼーっと何も考えないで行っている「覚える」では全く異なる動作になっていることでしょう。
前回「作る、読む、考える」の作例を行いましたが、短歌においても「慣れてしまうこと」が最も恐れるべきことだと考えます。
三十一文字に当てはめることに夢中になり、当てはめパズルのごとくありきたりな日常をただダラダラとSNSへ流し続けてしまう「慣れ」。
同じような仲間の短歌を見て、同じような経験を同じような言葉で同じように詠ってしまう「慣れ」。
長く作っているから、結社に属しているから、新聞や雑誌で選ばれたから、よいねやハートがもらえたから、「歌人」と安易に名乗ってしまう「慣れ」。
これらが何を招いていますか?
それはデタラメな多様を掲げる画一化という調べに乗って皆が同じ動きをしてしまっていることに他なりません。「既」なんてお題が出ようものなら、こぞってLINEのことを読んで歌にするといった具合です。「既読」という題ではないにもかかわらず「既」だけで狭まってしまう思考、私のような素人に糾弾されても仕方ないと言わざるを得ません。
インターネットで間口が広がっても、必ず良い影響ばかりが出るわけではありません。
表に出る手段が増えたにも関わらず、歌の質は劣化の一途を辿っています。
誰にも何も言われないから、「慣れ」てしまっているのだと思います。
その結果、同じような思考の歌とパターン化されてしまった歌に埋め尽くされようとしています。
近年の短歌雑誌の何年何月のどこをどう開いても、テレビを見てもラジオを聞いても新聞を見ても全く代わり映えなく同じような歌ばかりで、一体前に進んでいるのか、後退しているのか混乱してしまうほど、画一化されてしまっています。
モチーフも視点も感じ方も、不思議なくらい同じ歌が多いことが何よりそのことを証明しています。
まるで同じストーリーの物語を読んでいるようでは、すぐに飽きられてしまいます。
つまらない歌人が慣用表現は避けるべきだなどと、もっともらしく語っても、そんな貴方も含めて同じストーリー、同じ視点、同じ感じ方を垂れ流して、言葉や経験を「慣用化」してしまっていることに気が付いているのでしょうか。
ここまで来ると、私は自分がこの異常さに気付けてとても良かったと思っています。
短歌が「・・道」になり損ねているわけです。的が何処にあるのかすらも解らずにやみくもに矢を放ち続けるが如く迷走しています。伝統、作法、流儀、しきたり、なんでもかまいませんが、能書きを垂れる前に目指すべき的を掲げてほしいものです。もちろんそれは、●●賞などという極めて曖昧で閉鎖的なお飾りなどではあって欲しくありません。
「短歌とは事象の断面を気付きを伴って見せるもの」
それは慣れることのないチャレンジであり、道と呼べるものです。
無数の断面があらゆる事象には存在しています。
まるで二次元平面のように一方からでしか捉えられないのなら、すぐに弾切れになってしまうことは言うまでもないでしょう。異なるベクトルを立ち上げる意志が求められています。
・ 同じ側同じ視点で気付くのか見た目が同じ水の多様に
「うたの日」の箱船は今や棺も同然だ。乗ってしまったらオシマイ。
2021年5月25日
短歌 ミルク