「うたのわ」というサイトには1日5首までという決まりがあって、とてもよく考えられた仕組みだと思っています。自由に歌を投稿できるサイトなのだから、制限なく出来る方がよいという考えもあると思いますが、私自身は意味も無く多投することには賛成も共感もできません。この場所でしか、この形でしか、という文言を言い訳に使われる参加者もよく見かけますが、ただ自分の鬱憤を発散するだけの投稿なら、ツイッターで十分役目を果たすと思いますし、自分のブログなりサイトを持って、好きなだけ書けばよいと思いますが、何か、短歌という文芸が何をやってもよいという免罪符になってはいないかと危惧しています。
本人は吐き出して気持ちいいし、あわよくば「よいね」をもらえるので、さも認めてもらった、共感してもらった、という風に勘違いしているかもしれませんが、タイムラインをさかのぼらない人が大半なのだから、自分以外は読み返すことはまずありません。もしかしたら自分でさえも読み返さないかもしれないものを、人に見せる意味はどこにあるのでしょうか?
時間や物理的な制約の中で、日記の代わりに使われている方も多く見られますが、とても常識的で他者への気遣いに溢れた方ばかりです。節度を持って参加されている方の歌は、読んでも嫌な気持ちになどなりませんが、単に鬱憤をぶつけたような、読む人のことなど何も考えられていない歌は苦痛であり、読むに堪えません。
なぜ気分が悪くなるのか、自分なりに考えてみました。
それは、短い言葉でも吐き出された圧力を持っているからだと思いました。まるで自分の周りの空気や空間が圧縮されているような感覚を覚えるからです。31音というこんなに短い言葉の束なのに、思いやりのない言葉は、他の人の感情を押しのけて圧力を届けようとしているのです。歌う人の気持ちがそのまま言葉の圧力となって、他の人に覆い被さってゆくことに気付かなければ、ほんとうにただの落書きに過ぎません。自由に発信する権利は、その言葉の行く先も見据えたうえで成立するものだと思います。子供から大人まで簡単に理解できる単純なルールで成り立つ短歌だからこそ、投稿や体裁に一定の制約を設けることも必要ではないかと思います。
吐き出した言葉はきっと圧になり他の誰かを押しのけてゆく
何事も加減が大切で、受け止めて消化できる圧を知って吐き出すべし。
2019年9月12日
短歌 ミルク