動物や昆虫や生き物の啼く音は総じて「声」と呼ばれています。文字などという伝達手段を持たない生き物は、匂いや色や声で一生懸命伝えようとしています。
そんなことを一つ一つ知れば知るほど人の邪な心や欲に満ちた心根が伺えて、文字を持ったことが良かったのか悪かったのか問いたださねばならないと思ってしまいます。
私が執拗に「旧かな」を糾弾するのは、そこに明らかな「甘え」や「優越感」が存在しているからに他なりません。わざわざ音に似せた文字を解読して音として読ませるということを、人間ならではの特殊能力として行っているかのように、陳腐なノスタルジーを味わいたくてやっているとしか見えません。「旧かな」だから味わいが出て、「新かな」だから味わいが無くなるような短歌なら、もともと味わいなど持ってはいないものでしょう。何度も何度も何度も言いますが、音だけで聞けばすべてはあきらかです。
歌壇の選者も殆どはこのようなことに無頓着なのでしょう。
知人に目が不自由な方がいらっしゃいます。ご年配の方ですが、音声合成ソフトを使って詩集や短歌を聞いて楽しんでおられます。
しかし未だに「旧かな」の表現に突き当たる度、読むという作業を断ち切られたような違和感に襲われて、詩歌を味わうどころではないそうです。なぜ、必要でもない脳内変換をいちいち挟み込んでまで読まなければならないのか、言われて見ればその通りです。
再生の都度、歌は細切れになり、流れも意味も寸断されて内容を味わう所まで辿り付けないことの連続です。
よく例にあげられる「こう」の旧かなでの表示でも「かう」「かふ」「こふ」「くわう」などがあり、こうなるともはや別の意味に捉えられかねません。
歌なのに唄わずに選び、歌なのに唱えずに選ぶ。そんなことも出来ないご立派な歌人様が幅をきかせた現代では、きっと本当に良い歌は埋もれてしまっているのでしょう。
ホトトギスは自分の声を聞き分けられる相手の為に啼いています。
「ホーホケキョ」としか聞こえない人の為には啼いていないことを知るべきです。
・「見えたもの」それしか手には入れられぬ 芳一のこころ何処にあらん
選ぶこと、それは良いものを後に残すという使命を少なからず帯びている。いったいいつまで怨霊のようなポンコツ選者にそれを任せるのか、呪われた歌壇よ。
2020年11月4日
短歌 ミルク