百人一首の中の有名な和歌、持統天皇が詠まれた、
「春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」
という初夏の歌についての現代語訳は、概ね白い衣と山の背景のコントラストが与える印象が爽やかであるというものに落ち着いていますが、変わったところでは白い衣は山に掛かった雪の例えで、これは冬から春に詠まれた歌・・・なんて説もあるようです。春すぎて・・・と詠まれているのにまさかの冬とは、ズレかたも甚だしいものですが、まだ現代のように異常気象にはなっていないと仮定すれば、立夏は五月の初め頃とされているはずなので雪という選択肢はないような気がします。
何方もが、衣が干されているという光景から、夏が来たという導きを示唆されているのですが、どうも俗的で詠われた世界が小さいのが気になっています。それに風が吹いている様子が全く見えてこないのです。
夏、それも初夏と言えば風。
香具山に何が夏をもたらすかといえば、間違い無く風だと思うのは自然なことです。干してある衣がなびく程度の風でもたらされる夏なんて、ちょっと残念な夏と思えてしまいます。私は最初読んだ時に真っ先に筋状の雲が浮かびました。高気圧の張り出してくる初夏から夏に、南や南東の方角(台風と同じ左回りなので)からもたらされる風と雲、紀伊山地に阻まれたとしても、きっと橿原の位置から見えたに違いありません。遠近法のように遠くに向かって吸い込まれるような雲と風が、壮大な衣を干している光景に見えたと解釈しています。「天の」が香具山についていることで、壮大な景色をもたらすのは壮大な存在があればこそという根拠を導いているように感じます。単に白い衣を干している普通の山ではなくて、夏を連れてくる程の雄大な雲を頭上に流し、たなびかせている香具山を詠っているのだと思います。
これは私の、誠に勝手な解釈かもしれませんが、もしも本来のように「衣が干され始めたから夏が来た」という意味合いならば、その貧弱で狭い視点を褒めるわけにはいきませんし、「天の」と「干してある衣」という両者のスケール感がばらばらでなんともチグハグです。おまけに風を感じる趣もなく、よくこの歌が百人一首に選ばれたなと、首もひねりたくなります。
詠み手が一体どのような景色を前にして作歌の心に至ったのか、それを読み解くことは簡単なことではありませんが、柔軟な感性を持って読み込まなければいつまでも景色が見えてくることはありません。素直で柔らかく迷いのないキャンバスで、多彩な歌を受け止めたいものです。
白妙は果てへと流る幾筋の雲のたとえよ香具山に夏
そもそも夏以外でも衣を干すでしょって考えも世俗的かな。
2019年8月22日
短歌 ミルク