三十一文字のリズムに洗脳されると、最初は何でもかんでも三一文字に落とし込み、作っても作っても歌が出てくる病に発症します。ほとんど歌の体をなしていないものですが、その後次第に詠う対象や本質が固まってきて、言葉や表現が磨かれていくうちに歌らしいものに近づいて来るのだと思います。
最初は、趣味にでもなったらいいなぁという軽い気持ちで考えていました。が、未だに趣味とは言えず、また言いたくもない程、深く果てなく、また辿り着けない歌の世界を彷徨っている感覚です。自分の体調や疲労や衝動に左右され、思うように考えがまとまらないことも茶飯事ですし、一つの言葉の使い方で延々ああでもないと考えて、時間は過ぎるだけ。短歌を知れば知るほど生産性の悪さに落ち込んでしまう自分がありました。
そんな時、最も刺激を受けるのは私と同じ一般の素人の方が作られた歌を拝見することでした。プロ歌人の歌よりも、何とか賞を受けたセミプロや、素人の方の歌よりも、選にも取られなかった普通の素直に詠まれた歌が、一番心に染みこみました。皆、仕事や家事や育児、介護の間に一生懸命に言葉を繋がれて、ありのままで表現されているのですが、それらの歌はとても心地よく、優しく、白湯のように流れ込みました。
悶々とした違和感の元凶はまさにこれでした。読んで理解できる歌では、作歌の心境の近くにいられた気がしたのです。
古今和歌集を読んで、全くと言っていいほど共感できなかったのは、時代背景を鑑みたとしても、結局特権階級の人たちの「自分は」「自分は」という言葉遊びに終始していて、手に土も握ったことのない層の人々が作った歌だったからに違いないと、妙に納得できました。
読むことは、読み取るということは、とても大切なことで、読み取られるための詠みは平易であればあるほどいいという、明確な方向性を得ることができました。私の今の時間の使い方は「読むが9割」で「詠むが1割」を目指して取り組むように心がけています。
多くはなくても、少し時間を掛けて、もう一段深いところまで作歌の心に迫ってみるチャレンジをすることで、自分が経験できなかった世界のことがより身近に感じられるようになる気がしています。また、それを踏まえて作歌することで、言葉頼みや技術頼みの上辺だけの歌にならないように抑止する効果も見込めると思います。
短歌を作りはじめて2年程になりますが、まだまだ勉強することばかりでひよっこもいいところです。しっかりと読み取る力を身につけて、歌の魅力を感じられる心を持っていたいと思います。