今さらながら古典が内包すらできなかった世情というものがどういうものなのか、とても知りたい、感じてみたいと思っています。タイムマシンでもなければ当時の様子を知る術はありませんが、余りにも愚かな貴族のせいで書物にほとんど市井の様子が残っていないことに怒りすら覚えます。
ぼんくら貴族は一体毎日何をしていたのでしょうか。
天だ空だ霞だ雲だと見たことも感じた事もない永遠と死ぬ死ぬ詐欺を繰り返すだけの文章に、本当に未来まで残すべき値打ちなどあるのでしょうか。
当時僅か0.3%にも満たない人口の貴族階級の意味する所は、図らずも現代の短歌人口の比率にとても近いものがあります。それはどういうことを示しているのでしょうか。
もしもぼんくら貴族のように、短歌を詠む人が自分と自分の身の周りのことばかりを詠んでしまったら、未来へは何一つ短歌で伝えられないということになるということです。
伝える術を持てなかった市井の人々に代わって、世情を短歌に載せてこそ歌人であることや社会詠そのものの意義が存在するのだと思います。
新聞やテレビ、スマホに写真や動画、他の書物など、そんなものいくらでもあるじゃないかとおっしゃるかもしれませんが、そんな全ての媒体の役目を昔の歌や日記が背負っていたにもかかわらず、何も見えていない、感じていなかった貴族のせいで何も残せなかったのです。
起こりうることは今と何ら変わりません。
短歌だからこそ託せる世界があると信じているから、歌人達は歌を作っているのだと思いますが、もはやそんなことも感じていないのなら歌人とさえ名乗らないでほしいくらいです。
時代が言葉を転がしてボロボロにしてゆく中で、まだ傷を持たない美しい言葉も沢山あります。これだけ多くの言葉があっても、それらは完全に心を表せるのかと問われれば、まだまだだと痛感します。
本当に多くの人が勘違いをしています。
言葉を使って表すべきは自分の出来事や感想ではありません。
出来事や感想が見せる断面であるべきだと思います。
このように考えれば、古典和歌などほとんど0点と言ってもいいくらいです。
素人だから・・・・という言い訳も、その素人も全部含めて0.3%の中に居るのだとすれば、取り組み方も変わってくると思います。
「私性」なる言葉を用いていくら文学性を高めようとしても、そもそも中身が空っぽであることが露見するだけで、いつまでも(よくできました)の判子を押し合うままごとと変わりありません。
悪しき伝統に別れを告げて真剣に、「心を言葉が越えられるのか」ということを短歌によって追求しなければなりません。
そのような歌からしか、日常も生活も滲み出さないと思います。
そのような歌からしか、本当の哀しみも怒りも歓びも、透けて見えないと思います。
そしてそのような歌からしか、美しいものへの導きはないのではないでしょうか。
短歌を産み出す能力は一つの感覚器に近いものがあると思っています。
鋭さや緻密さを言葉に託して、感じるところまで引っ張り出さなければなりません。
そのためには「自分」を遠くに置いておくことや「自我」を閉じ込めておくことが大切です。
行き過ぎたファンタジーもほどほどにしなければならないでしょう。
見た景色ではなく、景色が見せたもの。
感じた痛みではなく、傷みを感じさせたもの。
触れた感触ではなく、伝わってきたもの。
目にするほとんどの短歌はズレてしまっていることに気付ける人が増えることを願っています。
・ 衝動に躓き落ちて這い上がれ言葉よ心を越えられるのか
「私性」よさらば、これは全く新しい短歌のはじまり。そして本物の短歌のはじまり。
2021年6月10日
短歌 ミルク