歌人や評論を生業とする人達の「過剰詮索」は時にお笑いかと思えるほど滑稽で、いつまでもそんなことをやってばかりだから大切なものを見失ってしまうのだと教えてあげたくもなります。
時折短歌の解釈の話題で例にあげられる有名な歌の一つですが、読みを巡って解釈論争が繰り広げられました。
水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水 服部真里子
このブログを読んで頂いている方なら、この歌も私の目指す短歌とは全く別の所を目指していると解ると思います。完全に自分に纏わり付いた歌であり、落差を気取ってチョイスした「水仙と盗聴」に何の意味もないことに気付くでしょう。
私はどう考えてもこの歌の解釈が、スパっとした断面に辿り着くとは思えません。
事あるごとに歌人たちは口を揃えて、作者の手を離れたら・・・と言い訳をしたり、いちいち説明することが種あかしのようで野暮であるなどと、逃げてばかりなのです。
いっそのことそれならばもう「歌意」なんて言葉も使わなければいいのにとさえ思ってしまいます。
作った当人が明確に答えられないものを、何故探しまくらなければならないのでしょう。
「種あかし」すらも楽しく深い、そのような読みの醍醐味を想定して作れることが歌人の条件だと思いますが、ほとんどの歌人は歌を野放しにして解釈の逃げ口上としています。
もしも私が解釈を求められても、「そんなこと知らんがな」としか言えないでしょう。
自分勝手に考えても作っても構いませんが、未確認生物の捜索や探険でもあるまいし、いちいち状況証拠を突き合わせるようにピースを眺めて、ああだこうだと詮索する必要などないと思います。
そもそも完成するためのピースがちりばめられてはいないのです。
このような作り方の歌は決して完成することはありません。
パズルの体を成してはいないのだから、仕方ありません。
短歌の解釈は決して穴埋めのクイズ問題などではないのですから、所々バラバラにピースを置かれても、全体の絵が見えてくることはないと思います。
だから野放しの歌を捕まえてまで詮索する必要などありません。
「文学」にしておきたい輩が難しい論法や文法を持ち出して語ったとしても、端から完成させるつもりのないパズルに答えなどありません。
「種あかし」をしようがしまいが、本物の歌の魅力は変わりません。
解釈に齟齬が生まれて歌が崩れてしまうのならば、もはや短歌ですらないでしょう。
「盗聴」という言葉に囚われただけの、盗聴をしたこともされたこともない、スパイでもない作者が、その言い訳をとって付けただけの歌にしか感じられません。落差や飛躍に踊らされて「盗聴」なんて使ってしまったのが失敗なのでしょう。
それでも誰も失敗なんて言いません。歌壇とは一体何処を目指しているのでしょうか。
2021年3月21日
短歌 ミルク