蜘蛛は何度払っても払っても、また同じ所に巣を張ろうとします。
移動や狩り(食料)の為ですから相手も必死です。「面倒だなぁ」とぼやく私などとは比べものにならない程、真剣に生きているのです。細かな間隔で張られた均等な図形を目にしたとき、何一つ疎かにせず丁寧に紡がれた軌跡であることがよく解ります。
もしもズボラな蜘蛛がいたとして、面倒くさがってスカスカの蜘蛛の巣を張ったとしたら、獲物を捕まえるどころか、自分自身にもリスクを伴うことになるはずです。
「出会いがない」とは若者の晩婚化や少子化や未婚を題材にした話題でよく耳にする言葉ですが、果たして本当にそうなのでしょうか。
日々を必死に生きている蜘蛛にすら申し訳ないのですが、糸も張らずにただ待っていても獲物が引っかかるとは到底思えません。
人にとって糸を張るとはどういうことなのでしょうか。
それは決められたあみだくじをただ辿っていくのではなく、自分でくじに線を引いて偶然や必然を引き寄せながら生活することだと思います。
現代は人に依存する要素が極力排除される傾向にありますから、すべてが予定通りに進むように設計され、運用されることが望まれています。ですから他の人に先んじるにはタイパやコスパを追求するしかなく、手っ取り早いスマホ依存になるわけです。
相手に対する時間感覚や心情の機微を察することを疎かにした結果、隣の人ともスマホで会話する人々を生み出し、その人達が望んだコミュニケーション環境が実際に疫病騒ぎで現実のものになってしまいました。
「自らが望む世界を自分に引き寄せてしまう」大きな功罪なのだと言えるかもしれません。
そのような世界になったらなったで「顔が見えない」とか「行事が行えない」とか「思い出を作れない」と嘆く始末です。要はことごとく自分に都合の良い世界だけを想い描いているだけで、偶然も必然も自らの手で作り出そうなんて微塵も考えていなかっただけなのでしょう。
「自分で選ぶ人は極めて少なく、選ばれることを待っている人ばかり」
これでは、出会いがないのも当たり前です。
そもそも予定調和を目指しているマッチングアプリから紡がれる出会いに、サプライズや映画のようなストーリーは期待し辛いと思いますが、それでも行動を起こして自分から線を引いてくじの行き先を変えてみようとすることは、とても大切で人間的なことだと思います。
便利なインフラや道具もなく、ただただ手間と時間が膨大に掛かっていた時代は、最短距離がなくそれぞれの道程がありました。そしてその一つ一つにかけがえのないストーリーを持っていたのです。時間は後戻りできないことを踏まえれば間違い無く誰にとっても「滅びの使者」ですが、時間の中で培ったことや生み出したものが時代を超えて生き続けていく「礎」ともなるものです。今になって考えれば(時間の無駄)で済まされることにも、人が生きていく上で大切にしなければならないことが隠されていたことがよく解ります。
流行のAIに「どうやったらいい人と巡り会えるのか」とでも聞けば良いのでしょうか。
間違った答えを平然と経験のように取り込み、まるで正解のように吐き出すプログラムは、
経験してもいない出会いや恋愛をどのように分析するのでしょう。創作や事実でもない経験談を参考に、それっぽい答えを出すのでしょうか。
「少し立ち止まって考えれば解る」ということを社会が敬遠し始めています。
人間のアナウンサーが「AIによる音声でお伝えします」なんて言ってしまったらもう最後です。その人の表情が、その人の声色が、その人の呼びかけが、大げさに言えば人生を左右する「あみだくじの一本」を生むのです。
流行の人工知能に理性を失った獣のように飛びついてしまう人達は、「考えることすら放棄する」というパンドラの箱を開けようとしているのかもしれません。
考えなければ幸せになれるのでしょうか。幸せでいられるのでしょうか。
仲間や風に抗って立つには、考える葦にならなければなりません。
それは片方から見れば無駄な時間や努力に見えるかもしれません。
しかしながらそれが真の意味での多様な考え方であり生き方でもあると思います。
自らが考えて、自らが選択し、自らが行動する。
蜘蛛にとってはごくごく当たり前のことから、真摯になって学ぶべきでしょう。
・自らは線も引かない人生の効率競い問うAIに
情報が多すぎて処理できない人間を嘲笑うかのように、蜘蛛は毎日決められた日課をこなしています。8つの目を持つ彼らこそもたらされる情報が多すぎると思うのですが、それは処理しなくても一向に構わない情報があることの裏返しなのかもしれません。
2023年4月29日
短歌 ミルク